合掌造りのル−ツを求めて。その2
今に残る加賀蕃時代の流刑小屋も・・・。

五箇山・白川郷に残る合掌造りは大半は江戸時代に建てられたものですが、加賀蕃おかかえの宮大工集団である能登大工、氷見大工とも呼ばれますが、「大窪,長坂の大工」が手がけたものといわれています。
かつて五箇山・庄川右岸の集落は能登島と並んで加賀蕃の流刑の地でした。
橋が架かっていない庄川の急流は逃亡を遮るのに充分だったからです。

加賀蕃の領地としてそこに建てる蕃直属の小屋は当然蕃としての威信をかけたものでなければなかったはずです。しかも逃亡を許さない頑丈で精巧な造りが求められたものでなければなりません。
古くは前田利家が「槍の又ざ」として信長の命で戦さに明け暮れていた時から、戦闘に加わりながら砦を作ったり、屋敷を建てたりと常に利家の歴史のそばにいた「大工集団」が後の大窪大工です。
飛騨の国と隣接するこの地にほかに口留番所・・・・関所も設けなければなりません。そんな歴史の求めで五箇山へ入ってきたものだと思われます。

流刑の身でも集落の中は出入り自由、帯刀御免という者から、このお縮り小屋(おしまりごや)から一歩も出られない重い罪人まで、主に侍の身分の人やその家族が流されて来ています。柱の穴は食事の出し入れをしたところ。
ちなみに東京・本郷のT大赤門は大窪大工の手によるものです。大学構内は加賀蕃邸でしたから。
この時に使われた欅などの材は五箇山から庄川を下って日本海へ出て江戸まで運ばれたそうです。