殺生石から温泉神社へ
殺生石は以前ご紹介しましたが、その隣りの温泉神社を紹介したいと思います。
以前の殺生石紹介に足りなかった所も含めてのご紹介(#^.^#) ニョホ
以前にも紹介した殺生石です
ここから登り上から温泉神社に向かいたいと思います
前回同様「千体地蔵」
今回は数えようとしましたが、200体まで数えられましたが・・・
キョロ(・・ )( ・・)キョロ
でも千体はありそうです、、、たぶん(;゚゚)ウッ!
これが「千体地蔵」のボス「教傅地蔵」
前回詳細な紹介が出来ませんでしたので、ここで・・・
『教傅地蔵の由来』
第96代後醍醐天皇の御代(1318年)の頃、奥州白河在の五箇村に蓮華寺という寺があり「教傅」という住職がおりました。
この教傅は生まれながらの不良少年で、心配した母がお坊さんにしようとしてこの寺に預かってもらいました。その教傅も28歳になって、前の住職の跡をつぎ、母と一緒に寺に住むようになりましたが、その行いは少しも直りませんでした。
元享元年(1336年)のことです。教傅は2、3人の友人と一緒に、那須温泉に湯治に行くことになりました。
その日のことです教傅は、母が朝食を用意してすすめると教傅はまだ旅支度も出来ていないのにと、悪口を言いながら、お膳をけとばしてそのまま出発してしまいました。
那須温泉に着いた教傅達はある日殺生石を見学しようと賽の河原附近まで行くと今まで晴れわたっていた空が、俄にかきくもり雷鳴が天地をゆるがし、大地から火炎熱湯が噴出し連れの友人はいっせいに逃げ去りましたが、教傅は一歩も動く事が出来ませんでした。
ふり向いて見ると「俺は寺を出るとき母の用意したお膳を足げりにして来た天罰をうけ火の海の地獄に堕ちて行く」と教傅が大声を上げ苦しみもがいております。友人がかけ寄り助けようと引き出したが、教傅の腰から下が炭のように焼けただれており息をひきとってしまいました。それからも教傅の引き込まれたところには泥流がブツブツと沸いていましたが、いつしか山津波に埋まってしまいました。
その後湯本温泉の有志が、享保5年に地蔵を建立して供養を行い、親不孝のいましめとして参拝する者が後をたたなかったと言うことです。
そしてここが『温泉神社』です
まだ入口ですよ^^
途中に見える山の上から見た『千体地蔵』
高い所が苦手な私としては(。。lll)
そして、ここが『温泉神社』です
今は静かですが、大晦日には・・・
那須に来ている別荘の人達や地元の人達で大賑わい^^
★★ 温泉神社とは ★★
第34代舒明天皇の御代(奈良朝)、湯本より南方約8キロメートルの茗荷沢村の住人、狩ノ三郎行広は、小牛ほどの白鹿を追い求め矢傷を負わせてなおも追い続けて雪不尽山(那須岳)の麓、霧生谷(元湯附近)に至った。濃霧に包まれ白鹿を見失い茫然として佇んでいる時、岩上に白髪の老婆表われ、「吾は温泉の神なり汝の求める鹿はかの谷間の温泉に浴しておれり、その温泉は万病をなおして甚だ効あり。鹿の浴するも手負いを癒さんがためなり、汝よろしく之を聞きて万民の病苦を救うべし」と言い終わりて消え去る。三朗白鹿を射止め、温泉を発見して神社を建立し歳時の祭礼怠りなく崇敬の誠をつくしたと言う。これが本神社の創建である。
帰りは階段を降りていきましょうか^^
ここを降りて行くと那須湯本の街に出られます
温泉まんじゅうでも買って帰りましょうかネ(#^.^#) ニョホ