御田祭(おんださい)ウィークですっ!!・・・余韻のにちようび。
ぎゅっと中身の濃かった御田祭もフィナーレを迎えました。
胸にたくさんの歓びをつめて、ぼくたちは会場をあとにします。

早乙女たちによる田植えの完成とともに、そろそろそろと神社をあとにする観覧者。
こころなしか、祭の朝よりも周囲の稲穂が背伸びしているように感じます。

かえりみち、ふたりの乳飲み子がお見送りをしているのに出会いました。
普段とうって変わっての、ぞろぞろ多い いちげんさんに目を配っています。

「どっから来なすったんじゃ〜。」
「とおくですよ、とおく。」

「それじゃあ、げんきでのう〜。」
いっこうに目を合わせてもらえませんでした・・・。

実習生の木さんがよなべして(!?)つくってくれたお昼ごはんを、耳川のほとりで休憩がてら頂きました。とっても美味しかったですっ!!
食事の後は、川に足をひたしてマッタリしました。みずの流れが冷たくて心地よくて、しばらく火照ったからだを癒しながら、波の絵をスケッチしたりして過ごしました。
写真は、長時間の運転でつかれきった野さん。
ほんとうにお疲れ様です・・・。おかげでいっぱい楽しめています。

ひととおり絵を描いてふりかえってみたら、河原が現代アートギャラリーになっちゃってました。石君や木さんが遊んでいたみたいです。
イタリア人アーティスト、アンディー・ゴールドワージーの見つけた小宇宙、あるいはカラリとして遺恨の枯れ果てた<賽(さい)の河原>のようでした。

今日のワタクシ的ベスト作品はこちらに決定ッ!!
背後は作者の木さんです。
こんな感じの構図で写真を載せている美術書やアート図録、そういやいっぱいあった気が・・・。
<天へと向かう意思>・・・とは、自然界にも人間界にも共通かしらね。
バベルの塔しかり。エッフェル塔や貿易センタービルしかり。空中都市マチュピチュやイースター島のモアイ像しかり・・・。
森の植生にも、人間のつくる作物にも、野に咲く草にも、キリンの首にも・・・いたるところに意思のかたちは見つかりますね。
もちろん上昇願望の背景にある目的には、似通ったところと大きく違うところ、両方込みでありそうですけど。
ともあれ「石にて意思を表現する」ってわけだあ〜ね、ふんふんふふんっ、えっへん、おほんっっ(せきばらい)。 (・・・すみません)

学校にぶじに帰り着いたその日の夕暮れは、神々しくもありました。

「それぞれの人はそれぞれの神をもち、おまえの神が<ほんとう>なのか、おれの
神が<ほんとう>なのか、なかなか解決がつかない。神が宗派の信仰であるかぎ
りは解決がつくわけがない。もちろん宗派という観点は宗教だけにかぎらない。
あらゆる理念にまで拡張して、理念の宗派、あるいは思想の宗派でもおなじな
んですが、そういうことをかんがえて争っても、解決はつきません。

現在のところできる可能なことはなんだろうかとかんがえてみますと、宮沢賢治
は、「宗派の神を信じている人のほうが、その宗派の神を信じていない人よりも
下位にあるんだということを信じている人が保てたら、神はなんだかいまのとこ
ろわからないとしても、それができたら、たぶん一歩だけ解決に近づくんじゃない
か」とかんがえた最後のところのようにおもわれます。
わたしたちは現実の世界ではそういう人を見つけることがなかなかできない。

思想でもおなじで、じぶんのもっている思想であれ、信じている思想であれ、
かんがえてきた思想がいいとおもっています。他の人もじぶんのそれをいいと
おもっているから、そこで対立もおこるわけです。
じぶんの思想をもっている人、あるいは信仰をもっている人で、もっていない人
よりも上位にあるとおもわない信仰者、思想者は誰もいないわけです。

宮沢賢治によれば、それはちがうんで、あらゆる宗派の神を超えた神、あるい
は宗派の思想を超えた思想に到達できる方法があるんじゃないかということを
説いているのです。そこが宮沢賢治の童話とか詩が文学、芸術であって宗教じ
ゃないといいながら、なおかつ宗教的情念として受けとることも読むこともできる
ところです。このことが、どこか作品のなかから宗教的なものが匂ってくる理由
です。そこが宮沢賢治の到達したところのような気がします。」
吉本隆明著「ほんとうの考え・うその考え」より

べつにぼくのことばじゃなくったっていい
とくていのだれかにこだわるのでもない
そのときそのしゅんかんのベストをいきることばにであいたいだけ
そうしておのれのかんかくをそらにほうりあげてみてみたいんだ
まつりのひのゆうぐれにおもう
そのひ にほんでもっともあつかったというとちで おもう
つれづれなるひびのあわよ
ようようとはじけて まじれ とうとうとはじけて まじれ
賢治の学校・実習生 緑