「環世界」
雑誌「風の旅人」13号の日高敏隆さんの文章より、一部引用しました。

「・・・つまり蝶たちにとって身のまわりにあるものすべてが重要なのではなく、その中のいくつかのものに意味を認め、それらとのかかわりの中で彼らは生きてゆくのである。
このことを夙(つと)に指摘したのはヤーコプ・フォン・ユクスキュルだった。

ある動物のまわりに存在するものは、その動物を取り巻くものすなわち環境
(Umgebung)である。しかしその主体であるその動物は、身のまわりの環境の中からいくつかのものに意味を与え、それらによって自分の世界を構築していることをユクスキュルは指摘した。そしてその動物主体が意味を与えて構築しているこの世界をその動物の環世界(Umwelt)と呼んで、この環世界の構造をつぶさに考察した。

問題なのはある動物主体を取り囲む客観的な環境ではない。
その中からその動物主体が抽出し、自分に意味のあるものとして構築した主観的な環世界なのである。
客観的な環境は一つしかないかもしれないが、そこに生きる動物主体の一つ一つにとってそれぞれの環世界がある。そしてそれぞれの環世界は、主体の動きに伴ってさまざまに変化してゆく。主体が空腹で餌を求めているときと、餌をとり終わって休息に移ろうとするときとでは、環世界は当然異なったものになるだろう。

ここ何年かの間に「環境」はきわめて流行のことばになってきた。けれどそれと
逆行して、「環境」の概念はきわめて漠然としたものになってしまったようにみえる。

ユクスキュルが「生物から見た世界」(岩波文庫)で述べているとおり、「環境」と「環世界」をしっかり区別して考えることはきわめて重要である。動物はたしかに環境の中で生きているが、実際にはその中に自分が構築した「環世界」の中で生きているのである。その環世界は客観ではなく完全な主観であり、いうなればその主体のイリュージョンによって成り立っているものだ。

ぼくが「動物と人間の世界認識」(筑摩書房)で論じたように、人間はじつに多様なイリュージョンをつくり出し、それによって過去から現在に至るまで、そして世界のどこの土地ででも、じつにさまざまな環世界を構築している。

人間以外の動物たちも、それぞれの知覚の枠の中でいろいろなイリュージョンをもち、それに従ってそれぞれの環世界をつくりだしている。

われわれが科学的に「環境」を考えるとき、一般には Umgebung としての客観的
環境を問題にする。たとえば地球温暖化とかオゾンホール、酸性雨とかいうぐあいである。それは重要なことではあるけれども、現実に問題になるのは、そのような環境の中に主体としての動物や人間が構築している主観的な環世界なのではないだろうか?

とくに、「良い環境を」などという一見もっともらしい目標が掲げられているようなとき、それはまさに環世界の問題である。それがどの主体の環世界についてのことなのかをよく考えねばならない。さもないとわれわれは、これまでにも数々の痛ましい経験をしてきた上に、さらにとんでもない事態をひきおこす可能性があるからである。

けれど、ことは環境の問題にとどまらない。人間は論理をどんどん展開して、どのような世界でもつくってゆく。その多くのものには現実味がないのだが、イリュージョンにおいてはそれらは現実のものとなる。
「いのち」、「生命」といったこと、死後の世界といったこと、その他現実性がまったくない「イリュージョンという現実」の世界を構築し、そこにあたかも物理的客観性が存在するかのように生きていく。

人間のこのような生き方がいつ始まったことかわからないが、今、われわれにとって必要なのは、人間の環世界がこのようなものであるということをあらためて認識することではないだろうか。」
賢治の学校・実習生 緑