花に誘われ物思う
きれいなものに、「きれい」ってことばをかけられることのしあわせ・・・
たとえ、すこしもつたえきれないのだとしても。

うつくしい造形が、そこらじゅうに用意されています。
いったいだれのためでしょう。
いったいなんのためでしょう。

ある人は、昆虫や鳥などをひきつけて受粉を滞りなく達成するためであるといいます。
鮮やかな色彩や贅沢な飾り付けに多大な資本をおしげもなく投入できるのも、
子孫を残し、遺伝子を継承するという最終目標こそが、個体の生きる上での至上の価値であるからだというのです。

あらゆる個体や類による競争が激化しすぎる環境では、シンプルなかたちや清楚な配色が逆に注目を集めるかもしれません。
人間社会でもよく見うけられるひとつの戦略の型ですね。

たとえばぼくたち人間がうつくしい野の花に出合って摘み取ったり、園芸品種や花束を花屋さんやスーパー等で購入し部屋に飾ったり庭に植えたりするとき、たしかに植物は人の手を介して、みずからの子孫を離れた土地に繁殖させるためのチャンスを得ることになるでしょう。そのすべてが結実することはありえませんが、継承という意図だけによれば、少なくともひとつが無事に生き残り、また種を確実に残せばいいはずです。

となりの彼や彼女より少しでも多く注目を引き、魅力的であるほうがみずからの子孫を残す可能性が高くなるでしょう。
動物でも植物でもおなじだとおもいますが、かれらにとってのうつくしさ(魅力)とは、そのまま本体のゆたかな健康をあらわしています。
本体がうつくしく健康であれば、うけとる遺伝子も健康であるはずですから、異性がこぞってよりうつくしい個体に狙いをつけるのも、よくわかる話です。
ただ植物の場合、雌雄異株で直接じぶんがほしい花粉をとりにいけない状況においては、どういう戦略が行なわれているのか興味をひかれるところです(たとえば、媒体する昆虫たちにお願いの信号??を送ったり。お気に召さない場合は受粉の拒否権を行使するなど・・・)。

ぼくが花をみて、うつくしいなとかすごいなとか感じ、しばしの間あしを止めて眺めた後、そのままその場をはなれたとしても植物の戦略にとっては成功なのでしょうか。
外界の対象の潜在意識化に印象を残すことによって、ふたたびその花の種にどこかで出くわした場合、ぼくは嬉しくなってその花を摘み取り、またどこかに活けることで繁栄の可能性を高めることに貢献するかもしれないのです。これは、どこでどんなご縁がやってくるかも分からないからと、外出するときは何時でも完璧な?お化粧を施すタイプの人間女性の感覚と共通のものがありそうです。
ぼくとしては、そのタイプの女性は花から生存の術を学んでいるのだろうと思っています。

しかし、本当にうつくしさとは、子孫継承のための重要な戦略オプションとしてのみ理解されうるものなのでしょうか?
たしかに花は無事に受粉を終えて、結実がはじまるのと入れ違いにその身を慎ましやかに閉じ、朽ちて土へと還っていきます。
<うつくしく在る>というひとつの大仕事を終えて、きもちがゆらりとほぐれたためでしょうか、どんどんその姿を奇異なかたちに変えていく様は、むしろ魅惑的にすら感じられるほどですが・・・。

人間は、いつまでもうつくしくありたいとねがう想いを抱えています。
子孫を残す前ならストレートに理解できますが、子供ができ、大きく成長し自立した大人になった後も、いやむしろ子供が自分のもとを離れてしまってから、まるでこれまでの抑圧された自己犠牲の日常(??)を取り戻すかのようにお洒落や自己研磨に邁進する(主に)人間女性の深層心理はいかがなものなのでありましょう。
もういちど、理想的な関係性を回復したいのでしょうか?
つまりはリセットしたいということ?
あるいは永遠のくりかえしに身を投じることで、死の現実を遠ざけようとしているのでしょうか?

死がおそろしい、という想いは重く定着している気がします。
・・・動物だって食べられそうになったら、必死で逃げますよね。
子孫を残した後だって必死で逃げるところをみれば、やはり<自己存続への欲望>は制しがたいということになるのでしょうか。

しかし、もし<自己存続への欲望>が生存における第一義になってしまった場合、どういうことがおこるのでしょう。
いのちを消耗させる生殖行動を避けるケースが増えるでしょうか?
いやしかし、自己が存続するためには他者が必要でありますから、他者に認められることで存在に歓びを見いだし、ひいては存続の欲望も満たされるはずなのです。
(ひとりではいられないはず・・・・両性を有していれば別かもしれませんが。)
子孫を残すという行為も、ある意味遺伝子の受け渡しであるのですから、「永遠の自己を繋いでいくために行なっている」ということ、つまり「それは、自分のためだ」と言い切れなくもありません。

じぶんひとりしかこの世に存在しないのであれば、自己を存続させようという意思も薄らいでいくことになりましょう。
じぶん以外の他者がこの世に存在するということが、つまり他者といつまでも関係をつづけていたいという想いが強ければ強いほど、<自己を存続させる欲望>も相乗的に高まっていくのではないでしょうか?
自己愛は、他者への愛と深く関係していると思います。
自己を許せぬ人間は、他者を認めることができないからです。
また自己を疑うことのできぬ人間は、他者を信じることができないからです。

他者への愛がつよいほど、自己へとむかう愛はその質・量を増していくでしょうが、目的は他者を受け入れること、自己を超えて存在をつづけることなので、いじらしく自分自身に囚われ執着することは無くなってしまうと思います。

つまり、うつくしさとは、自己のためではなく、自己に留まるものでもなく、流動すること、交感すること、止揚すること、育みあうこと、またはそれらの現場にこそ見いだせる といえそうな気がします。
長らく書いてきましたが、朝から田んぼや畑に立って時を過ごし、生長の圧倒的な力強さや素直さに触れれば触れるほど、ぼくたちのこの世界は遺伝子の利己性によって突き動かされ、右往左往させられるまえに決定されているとは思えなくなってくるのでした。
・・・って、こう考えちゃうのも遺伝子のせいだっての??
賢治の学校・実習生 緑
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