働くアウトドアin愛林館! 水俣巡り篇 前編
大学時代に水俣病周辺の研究をされていた実習生の野さんにガイドをしていただきながら、当時の記憶が生々しく刻まれて今へと繋がっている現場をみてまわりました。

ここは、水俣の百間(ひゃっけん)排水口です。
1932年から1958年の間、こちらを介してチッソ工場より排出される〈メチル水銀を含むヘドロ〉を流し続けました。
その後、政治的状況(カモフラージュ?)により排水経路を水俣川河口に移したり、再び百間に戻したりしながら結局、1968年まで止むことなく排水は工場の需要・生産拡大とともに、むしろ規模を拡大しながら続くことになります。

水俣病の症状といえば、どのようなものを思い浮かべるでしょうか?
典型的な水俣病の重症例といえば、まず〈口のまわりや手足の痺れ〉。やがて〈言語障害、歩行障害、求心性視野狭窄(しやきょうさく。極度に視界が狭くなる病)、難聴〉など。
徐々に悪化すると歩行困難にまで至ります。
さらに症状が重篤(じゅうとく)なときは、〈狂騒状態(激しい痙攣をおこす)〉から〈意識不明〉をきたし、〈死亡〉することもあります。
これは、専門的には劇症型と呼ばれる症状(ハンター・ラッセル症候群とも)で、水俣病といえば多くの方がこの姿を映像や写真の印象から思い浮かべるのではないかと思います。僕もそうでした。
しかし当たり前といえばそうなんですが、水俣病にも軽度の症状があり、早期な治療によっては回復にむかうこともあったようです。
その軽症例としては〈頭痛、疲労感、味覚・嗅覚の異常、耳鳴り〉などで、ふだんの生活においても頻繁にみられる症状のため、水俣病であることが世間からは認知されないまま適切な治療も受けられず、症状を悪化させてしまうことも多々あったことだろうと思います。
劇症型の症状があまりに重々しくて強烈な痛みの印象ばかりを人に与えてしまうため、いつの間にか水俣病=劇症型のイメージをつくりあげてしまいました。そのせいもあってか軽症の方が水俣病を名乗れば、みえる容姿の平常さのために治療費を捻出(ねんしゅつ)させるための偽装だと泥棒扱いを受けたり、また逆に水俣病者は世間から奇人・変人という誹謗の扱いを受けてしまう時期もあったため、それを恐れてみずから名乗りを上げられないまま取り返しのつかないところまでいのちを追い込んでしまう方々も幾人もいらしたようでした・・・。

名乗りを上げることも、治療をうけることも、人としての正当な扱いを受けることもできない。
病を癒すことも、心を癒すことも、受け止めてもらうことも出来ないで突き放された人々は、いったい世界をどう受け止めていたのでしょうか?
水俣病とは、劇症型の患者さんへと特権的に向けられるであろう、分かりやすい〈同情や哀れみや慈愛の想い〉と、おそらくその内にも外にも潜んでいる見えにくい〈誹謗中傷、軽蔑、不快・・・〉の視線などで一緒くたにしてまとめ、理解して済ますことは出来ません。
軽症であれ重症であれ、原因がメチル水銀中毒による神経系の疾患であれば、水俣病です。
重い症状の方だけを取り上げて水俣病であると認定していけば問題は解決に向かうという考え方では、生命の尊厳という捉え方からも水俣病の孕んでいる問題の本質を取り逃がしてしまいます。
水俣病を導くに至った背景にある、高度経済化をめざして躍起になっていた日本の社会構造。利益追求型のシステムと、それを可能にした技術革新と限界。環境対策の不備あるいは軽視と、後回しにされていく倫理観。
経済の発展をめざして驀進した当時の日本が、避けては通れず正面から向き合わざるを得ない問題が〈水俣病〉であり、もはや被害者と加害者だけの問題では済まされません。さらにいえば、これは人間だけの問題ではなく、すべての生物存在を等しく意識した上で考えなければならない〈生存倫理の問題〉であると、僕はそう思っています。

この奥がチッソ水俣工場です。
簡単に水俣工場の歴史を振り返りますと・・・
・1916年、現在地に新工場を建設。日本窒素肥料株式会社という名称で、*石灰窒素肥料メーカーとして、商業開始。
*石灰窒素・・・農薬と肥料のふたつの役割を果たす化学合成物質。
施肥直後はシアナミドの毒性のため作物をすぐに植えつけること
はできないが、線虫や雑草の防除効果を持つ。
7〜10日後には毒素が分解され、肥料としての効力を示すとい
う。植物・動物に対して毒性を持っているので、取り扱いには注
意すること。
・1923年、カザレー法による合成アンモニアの製造に成功、世界初。
これにより、合成*硫安(りゅうあん)の製造販売が始まる。
*硫安・・・代表的な窒素肥料。即効性であるが、窒素分が吸収された後に
硫酸イオンが遊離硫酸や硫酸カルシウムとして残り、土壌を酸性化
してしまうという面もある。
現在では、土壌を酸性化しない尿素の方が広く使用されているらし
い。
・その後も最先端技術を駆使しながら、塩化ビニール樹脂や日本初の高純度シリコンの開発・製造を行なったり、液晶や電子部品を手がけたりと深く現代文明の構築に関っているのが見てとれる。
水俣病の現実に触れて、反射的にチッソのとった行動を批判することはおそらく真っ当であるし、たとえそれが感情的な意見に終始するものだとしても、加害の側から反論をかえすことは難しいに違いない。
だが、ここで冷静に考えなければならないことは、僕たちが現代生活を営むうえでチッソが開発・製造した製品の恩恵を、どのくらい直接或いは間接的に受けているかということではないでしょうか?
そういう事実を踏まえずに、一方で利便性と快適さに富んだ生活を実際に営みながら、ある現場や議論の場においては悲壮な現実ばかりに焦点を合わせ、憂慮に包まれながら痛みや憎しみを訴えてみても、それほど物事は前進しないように思うのです。
水俣病の患者さんたちの一部は、チッソで働く従業員に対し「あなた方も被害者ですね。」という捉え方をしていたと言う。病気をうけ、実際に死に至るのは自分たちであって従業員の方ではないにもかかわらず、である。
彼らは、被害と加害の垣根を越えて物事をうけとめ、現実を全身で受け入れながら、更なる未来を真摯に見つめていたのではなかったか?
僕たちは、ここから多くを学ぶことが出来るはずです。
過ちは、往々にして繰り返してしまうもの。
誠実に未来をより良きものへと進めることを望むのならば、起こりうる(或いはすでに起こった)あらゆる現象を常に自分に置き換えて捉え返してみる視点を忘れずに、快適な思考ばかりを前面に展開して足元を見失ってしまわないように、リアルな生の内に解決の標を見いだしていきたいものです。

こちらは水俣湾に浮ぶ恋路島です。恋路と書いて〈こき〉と呼ぶそうです。
あまり人の手を介さないで育った自然が多く残っているため、タブノキを中心とした天然の照葉樹林帯の森がそこにはあります。
その向うは不知火海。記紀にもその命名についての伝承が残されてあったんじゃなかったっけ?
湾の底は全面コンクリートのようなものでびっしり敷き詰められており、当時の消えない記憶が奥のほうからどくどくと湧いてくるのを必死に押さえつけ、見えないように蓋をしているかのようなイメージに囚われました。
そんなことを知ってか知らずか、海の中にはたくさんの小魚やイカの子供がぷかぷかと泳いでおり、海に水銀が流される以前よりもきれいになったという話にも信憑性が感じられます。・・・ただし、それは人為的に造られたうつくしさですが。
僕たちが立っているこちらの親水護岸から後も、当時は海だった部分を埋め立てて造られました。現在は〈エコパーク〉と呼ばれており、立派な樹木やたくさんの花が植えられ綺麗な公園になっていますが、その地面の奥の見えない足元は、無数のドラム缶にぎゅうぎゅうに詰め込まれ廃棄された魚やネコや鳥や小動物の屍骸で埋め尽くされているそうです。なかには病気の蔓延を防ぐために生きたまま捕らえられ、そのまま(あるいは殺されて)埋められたいのちも数多くありました・・・。
うつくしさとは、いったい何でしょうね。
「 yard-a-pult 」・・・「 見えなければ、それでいいのか 」
最近では情報を過激に誇張しすぎだと批判されることも増えてきた、アル・ゴアのある書物に比喩として書かれてあったこの言葉からは(少なくとも)、つねに深い内省の念を覚えます。

海岸線に沿って中央に濃い緑と緑の開かれた入り口のような箇所があるのが分かるでしょうか?
あの奥は茂道(もどう)と呼ばれる地区であり、袋湾という昔から魚の産卵場でもあった豊かな漁場がありました。
ある時、1954年ごろから魚が手づかみでもたくさん捕れるような状況が始まりました。そんな動きの弱った魚をねらって、水鳥やカラスやネコが大量に集まってきました。
・・・しかし、やがてそれらの生き物たちは苦しみに苦しみぬきながら次々に死亡。茂道では生きているネコが一匹もいなくなってしまったそうです。
それにより今度は鼠が急激に数を増しましたが、いつの間にか死んでいきました。もちろん人間にも影響が及んでいきます。
茂道だけで、水俣病認定患者数は200人を越えました。
当時、この病気は遺伝・伝染すると思われていたため、患者さんの家族は恐ろしく冷たい扱いを受けたといいます。
しかし、患者の親族を村から追い出そうとした住民たちも、やがて同じく発病していくことになるのでした。






それでもひとは、生きたいと願うのです。
賢治の学校・実習生 緑
・みんなで声に出してみよう!!今日の「ありがとう」・・・
「 Terima Kasih トゥリマ カシ 」
(インドネシア語、マレーシア語)