2008年10月12日 午前6時23分
ひとつのいのちがたんじょうしました。







鹿児島の友人からの一本のメール。
朝、ついにひとつのいのちが誕生したという。
感じきれない幾つものいのちのやりとりが、おんなじ惑星の中で、今日も違わずくりかえしつづけられているが・・・
だれかのよろこびが、ほかのだれかにとってもつねによろこばしいことだとは、ざんねんながら、まだいうことができない。
世界中のあらゆる事象を、もらさず受け止めることはどうやったってできそうにない、という想いもある。
だから、
「せかいぜんたいがこうふくにならないうちは こじんのこうふくはありえない」
といわれても、意識的にせかいぜんたいにこうふくをとどけようと切磋することは、不可能だし、不可解だし、ときに不愉快でさえあったりする。
ぼくたちに身近にできることはといえば、自ずからしあわせになろうと欲して動くこととか、愛しい時間を共有してきた周囲の友人・家族・仲間たちのしあわせを祈ることとか、そんなことくらい。
欲することは、他者を捕らえず自分を動かし、
祈ることは、おのれを祝わず他者を祝福する。
僕にはどちらも大切だ。
意識的にできることは、ほんの少しで限られているけれど、多産な無意識の世界へのアプローチは、意識の領域からさえ彩ることができるはずだ。
というか、意識している限り、〈彩ろうと欲する〉こと、〈彩られるを祈る〉ことは止みそうがない。
僕は今日、せかいじゅうのしあわせを、ひとりの友人の下に授けられた、ひとりの少女の誕生への祝福に込めたいと思う。
・・・今日眼が覚めて、自然農を学ぶ大地へと届けられてきた朝のひかりを、僕は何気なく、ここちよさに包まれながら、写真に残していた。
後から知ることになったのだが、丁度その数分前に友人の子は誕生していた。
それを聞いたとき、何か大切な贈り物を頂いたように、じんわりと嬉しくなった。
別に、確かな何かがどうこうということは何も無いのだけれど。
ただ僕にとっては、今朝の朝焼けが特別になったのだけは、確か。
そしてこのような僕と友人の間に繋がり広がっていった幸福な心持を、いかにして〈世界の心〉に還元していけるのかが、僕の長年の問題意識の一つでもある。
こころから、あなたの誕生を祝います。
2008年10月12日 高緑 和昌