老いて「最強」たれ -1-
「死」を引き受けて、「怖いもの」なし
『悩む力』より。
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ところで、かく言う私も、四十代末ごろ、年を取ることが恐ろしい時期がありました。自分の気力、体力が衰えていくことを考えると、この先どうすべきなのかわからなくなったりしました。得体の知れない不安に襲われて、無性に気が滅入ることもありました。最近は男にも更年期障害があると言われていますが、それだったのでしょう。一種のうつ状態だったと思います。
しかし、それが吹っきれた後、妙にサバサバして、「この世の中に、恐いものなどあるか」といった心境になったのです。
そうなるまでにはかなりの葛藤がありましたが、私にとって大きなきっかけになったのは、そのころに遭遇したいくつかの「死」だったと思います。
最大の転機になったのは、両親の死です。在日である私にとって、熊本にいる両親は何かがあったときに帰っていくことができる、最終的なよりどころのような存在でしたから、喪失感はあまりにも大きく、私は深く落ち込んでしまいました。しかし、『それから』代助ではありませんが、それによって、決定的にこの世という下界に落ちることができたのかもしれません。
親友の死も経験しました。学生時代から喜びと苦しみを分かちあってきたかけがえのない友人です。しかし、彼とのつながりを想いめぐらす中から、逆に自分というものを再確認できるところもありました。
むろん、大切な人と別れることは悲しい。へたりこみそうになります。しかし、それを何度か繰り返すうちに、自分の中で何かが変わってきたのです。死というものに対する心構えのようなものができて、「死を引き受けてやろう」といった気持ちさえ持ちました。
もちろん、いつもそんなに「達観」できるわけではありません。やはり、死が怖くないと言えば嘘になります。しかしそれでも、ぼんやりとではあれ、死に対する心構えのようなものができるようになったのです。別の見方をすると、私は他者の死によって、うつ状態から救われたと言えるかもしれません。
究極的に言うと、人間にとって最大の恐怖は「死」です。であるとすれば、「老人力」とは「死を引き受ける力」でもあるでしょうか。
(中略)
しかし、ここで強く言いたいのは、同じように(引用者注:「死」が)「恐くない」でも、子供のように「知らないから恐くない」ではなく、知ったうえでの、少なくとも死について考えをめぐらし、心構えのようなものを持ったうえでの「恐くない」であるべきだということです。
そのためには、自分の人生について悩みぬくことが必要だと思います。それを避けていたら、たぶんいつまでたっても恐いでしょう。
おかげで私はいま、いまだかつてないほど開き直っていて、大げさに言うと、「矢でも鉄砲でも持ってこい」という気分になることもあります。
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(色づけは引用者による)
私ゃ、まだまだ青いね。