あり得ないことが、(143)
これはフィクションです。実在の人物、団体等とは一切関係ありません。
突然がたんと揺れてエレベーターが止まった。止まり方が尋常ではないしドアも開かないので背筋に嫌な感覚が走った。非常電話を取って呼び出しボタンを押しつづけるとこのビルの警備室が出た。
僕は自分の所属する会社名を名乗って「エレベーターが動かないんですけど故障ですか。」と聞いた。急にエレベーターが停止してドアも開かないという状況では正常に運転中とは考え難い。
「何かの理由で非常停止装置が作動したようです。管理会社に連絡を取っていますのでしばらくお待ちください。その中にいるのは何名ですか。」
僕は自分と営業君の名前を言った。これは万が一にも営業君が可笑しな気を起こさないようにするために打った釘の一つのつもりだった。
「分かりました。エレベーターは完全にロックされていますので危険はありません。管理会社に連絡済ですのでしばらくお待ちください。」
危険はありませんだって。ここにいることが今の僕にとっては危険そのものなんだ。
「出来るだけ早くお願いします。」
僕は電話を切ると営業君の顔を見ないで「故障だそうよ。」と言った。
「しばらくはこのままのようだから慌てても仕方ないわ。落ち着いて管理会社が来るのを待ちましょう。」
僕は出入り口に近いところに腰を下ろした。換気扇が止まらずに回っているのが救いだったがエアコンが作動しているわけではないので何となく息苦しかった。もっともこんなところに好きでもない男と閉じ込められたら息苦しいのは当たり前かもしれない。
「佐山さん、これは神様が僕にくれたチャンスだと思います。どうか僕の話を聞いてください。」
目をきらきらさせている営業君を見ていて僕はあきれ返って力が抜けてしまった。こいつは今この時間が恋を語るべき時間だと思っているんだろうか。
「あんたねえ、今私達がどんな状況か分かっているの。」
「ええ、しばらくの間、ここには誰も入って来られないので僕には願ってもないチャンスです。」
どうも今こいつに何を言っても耳には入らないようだった。
「あなたが私のことを好きだってことは良く分かったわ。それは承っておくから今は黙っていてくれる。恋なんか語るような状況じゃないでしょう。何時ここから出られるのかも分からないのに。これはね、事故なのよ、事故。神様があなたにくれたチャンスじゃないの。」
このお目出度い営業君に僕たちが今おかれている状況を理解させようとしたがそれも徒労に終わりそうだった。
「佐山さん、僕は初めて会った時からあなたのことをずっと思っていました。」
「もう分かったわよ、あなたが私のことを好きだっていうことは。でもね、せっかくだけどあなたの好意はお受け出来ないわ。あなたの好意は好意として私には私の事情があるのよ。それとね、もう少しTPOを弁えてものを言ってね。」
このばかはこれから何時までここに閉じ込められるか分からない時に愛も恋もないだろう。もしも何時間にもなったらトイレはどうするんだ。いくら僕でもこいつの前では用を足したくはない。
営業君はその後も一人でしゃべっていたが僕はほとんど無視していた。そうしているうちにインターホンが鳴った。立ち上がって受話器を取ると管理会社の点検員だった。この時は心底助かったと思った。
「大変ご迷惑をおかけします。大丈夫でしょうか。」
点検員は月並みなことを言ったがこの際大丈夫でなければ電話には出られないだろうし、何かしらの重大な障害がなくてもこの状態は大丈夫ではない状態ではないだろうか。
「こっちは大丈夫です。エレベーターは動きそうですか。」
「これから点検してみますが、システム制御用のマイクロチップが破損している可能性があります。その場合、手動で最寄の階に停止させるかそれも不可能な場合は天井の脱出口から救出します。現在エレベーターは九階と十階の間に停止していますので十階の乗降口からラッタルを提げてそれを使って脱出していただきます。とにかくシステムを点検してみますのでしばらくお待ちください。」
この点検員という男は状況を客観的かつ手短に説明してみせた。人によっては不安になるかも知れないが、僕には状況が把握出来て落ち着くことが出来た。そうしてしばらく待っているとまたインターホンが鳴った。
「やはり制御システムのマイクロチップが焼き付いて破損しています。エレベーターのロックが解除出来ないので十階からラッタルを下ろします。それを使ってそこから出てください。箱は完全に固定されていますので危険はありません。」
さっきの点検員はやはり落ち着いた様子で脱出方法を説明した。ラッタルでも何でもここから出られればそれで良い。