あり得ないことが、(149)
これはフィクションです。実在の人物、団体等とは一切関係ありません。
「出来たばかりなのに人を換えることは出来ないわ。だからお願いしているの。」
北の政所様は少しトーンダウンした言い方に変えて来た。
「私は端から問題なんか起す気はないわ。ただ普通に仕事をしようと思っているだけよ。勝手に横恋慕みたいなことを仕掛けて来て、ありもしないことを言いふらされるこっちの身にもなってみて。少しくらい負の噂が立ったからといって傷つくような年齢でも境遇でもないけど、自分に責任のないことで中傷されるのは真っ平だわ。」
僕が怒り出したので北の政所様と女土方は困ったように顔を見合わせた。
『何でもかんでも始末に困るようなのを私に押し付けるのは止めてちょうだい。』
僕はもう少しでそう言ってしまうところだったのを、女土方の『めっ!』という視線で気がついて言葉を飲み込んだ。そうだ、始末に困る第一号クレヨンは北の政所様の娘だったんだ。
「私もよく注意していますから大丈夫です。佐山さんと彼を二人きりにするなんてことがないように気をつけますし、私からもそれとなく彼には言っておきますから。」
女土方は模範的なことを言うが、彼女が気をつけるのは主として僕の方で、営業君については誰が何と言ってもあの他人と相容れない脳天気振りではだめだろう。その辺はさすがに僕も理解した。
一旦沈黙が支配した後、話がまた新企画に戻った。考えてみればこの企画は受入れ先さえ探せば何でも応用可能な魔法の企画のようだったが、需要の問題もあるので当面は趣味の面から検討して行くことになった。
打ち合わせが終わってクレヨンを拾うと僕は職場を出た。女土方は自宅に帰り、今日は僕とクレヨンがあの邸宅に戻ることになった。僕にしてみれば泣き寝入りのような状態で面白からず思っていたのであまり口を聞かなかったが、クレヨンはそんな僕を一歩も二歩も下がって見ていた。きっと不機嫌な僕と一緒にいることで居心地が悪かったんだろう。こいつには特に落ち度はないので、今回についてはかわいそうなことをしたと反省した。
翌日も営業君はあちこち伝をたどってそこそこ細かい情報を持ち帰ってくれたが、その報告の後に食事に行きませんかだの、出張でもいいから一緒に旅行に行きたいだの余計なことばかり付け加えた。
「良いわよ。食事をご馳走してくれるの。」
僕がそう答えると営業君は身を乗り出して来た。
「本当ですか、じゃあ予約を入れます。どんな料理が良いですか。」
「料理は何でも良いわ。でも握り寿司が良いかな。ただし一つだけ条件があるわ。それを飲むならいいわよ。」
「佐山さんと食事が出来るならどんな条件でも受け入れますよ。どんな条件ですか。早く言って下さい。」
部屋にいた全員が手を止めて僕たちに注目した。女土方は腰を浮かせて立ち上がりかけていた。
「この部屋の全員を一緒に食事に招待すること。それなら私も行くわ。何なら社長も誘ってもらおうかな。」
「じゃあ食事はいいです。そのかわり佐山さんと夜を共にしたい。ホテルなら何処でもお好みのところを予約しますから。」
こいつは頭がおかしいのか。そんなことで女が付いてくるなら誰も苦労はしない。
「あなた、いい加減になさい。それはセクハラよ。これ以上黙って見ているわけには行かないわ。」
女土方がとうとう立ち上がった。
「大丈夫よ、そのくらい何でもないわ。」
僕は女土方を制した。こんな低俗なことには女土方を巻き込みたくはなかった。
「いいわよ、私を抱きたいのならそうさせてあげるわ。でも一つだけ条件があるの。それがクリア出来たらいいわよ。一晩一緒に過ごしてあげるわ。」
「どんな条件ですか。ここの人たちを全員ホテルにご招待ですか。それじゃあ意味がないじゃないですか。」
「違うわよ、あなたと二人きりで過ごしてあげるわ。」
「その条件を言ってください。お願いします。」
それ来た。ばかはやっぱり止め処がない。
「あなたが女になってくれれば一晩一緒に過ごしてあげるわ。女装なんてだめよ、正真正銘の女になってね。」
「そんなの無理に決まっているじゃないですか。正真正銘の女になんかなれっこありませんよ。」
そんなことはない。断じて行えば鬼神もこれを避くと言うではないか。本当に好きなら一念を通してみろ。第一、僕を見てみろ。正真正銘立派な女になったじゃないか。もっともそれは自分の意思にかかわらずそうなってしまったには違いないが。
「ひどいなあ、その気にさせておいて。出来ないことばかり。でも僕は諦めませんからね。きっと思いを遂げて見せますから。待っていてくださいね。」
「こういう女は首輪でもつけて調教しなきゃあだめかもよ。」
またクレヨンが余計なことを言った。ファイルで頭を叩いてやろうと思ったらその前に「パシッ」と音がした。女土方だった。女土方は怖い顔をしてクレヨンを見据えていた。
「言って良い冗談と悪い冗談があるわ。幾らなんでもそのくらいは弁えなさい。」
女土方に叱られたクレヨンはさすがに萎れ返っていた。
「一人前の大人の人間を調教なんて正気の沙汰ではないわ。そんなことを考えるだけでも犯罪だわ。」
女土方は調教と言う言葉がかなりお気に召さないようで怒りが治まらないといった風情だった。その怒りのバロメーターが上がるに従ってクレヨンが萎れて行ったが営業君はそんなことはお構いなしのように言い放った。
「調教ねえ、そういう手もあるかな。でも佐山主任、手強そうですねえ。ちょっとやそっとじゃあ、なびきそうもないな。でも僕もきっと良い方法を考え付いて見せますから。楽しみだなあ、主任と一緒に時を過ごすのが。」
このバカはどうしても僕と添い遂げたいようだ。たとえ徒手空拳で戦って斃れようとお前なんかと添い遂げてやるものか。でも僕はちょっと戦法を変えた。何でも感情的になって食って掛かるのではなくて適当にはぐらかすことにしたんだ。