あり得ないことが、(154)
これはフィクションです。実在の人物、団体等とは一切関係ありません。
いろいろ考えた末に取り上げるテーマはエステ、リラクゼーション、観劇、文学紀行、キルトなどの手工芸、ペット、自然保護、料理、ゴルフ、乗馬などのスポーツなどの中から旅行社が決定次第これを交えて検討して選択することにした。
僕自身の考えではエステ、リラクゼーション、観劇・文学紀行、乗馬・ゴルフなどのスポーツの三部門で期間は四週から八週、海外での研修生活期間は二、三週間、募集人員は各コース十名程度を考えていた。その根拠と言われても確たるものもないがテーマも一般的かつ手ごろで期間、人員ともこの程度が扱いやすいのではないかという自分の勘程度の思い付きだった。
この線で役員への報告と旅行会社との基本的な打ち合わせに使うための大まかな報告書を作り終わったのが午後九時過ぎだった。クレヨンは家で来客があるとかで先に帰してしまったし、女土方もどうしてもはずせない打ち合わせで外出先から直接帰宅することになっていた。僕には確固たる自信というほどではないが、あれが出てくるという確信のようなものはあった。
果たして僕がパソコンの終了ボタンをクリックしたちょうどその時、部屋のドアが開いて営業君が入って来た。
『やはり出たか、この物の怪が。』
怪奇映画ならそう言って刀の柄に手をかけるか、銃を構えるか、あるいは金切り声を上げるところだろうが、この場合刃物や飛び道具はよろしくないのでパソコンを閉じると黙って帰り支度を始めた。どうせ声をかければ訳のわからないことをああだこうだと言いまくるに決まっているので、部屋を出る時に一言声をかけておいて、そのままずらかろうというのが僕の算段だった。
営業君は自分の机の引き出しを開けて何かをいじっていたが、僕はなるべく営業君を見ないようにして支度を済ますと、「お疲れ。」と言って出口へとダッシュした。しかし僕のところから出口までは係の島を半周しなくてはいけないのだが、営業君のところからは一直線で出入り口へ届くのだった。
「そんなに急いで出て行かないでちょっと待ってください。」
営業君に出入り口を塞がれて僕らは面と向き合った。
「どういうつもりなの。そこをどいてよ。」
僕は営業君をにらみつけた。
「そんなに恐い顔をしないでください。僕はあなたと話がしたいだけなんですから。」
「もう何度も言っているはずよ、あなたと個人的におつき合いをするつもりはないって。だからそこをどきなさい。」
「恐いなあ、あなたはどうしてそんなに恐いんだろう。でも、あなたのそういうところが僕にはたまらない魅力なんですけど。」
営業君は僕の方に半歩踏み出した。それに合わせて僕は半歩後ろに下がった。僕はいきなり飛びつかれて自由を奪われないよう、もう一歩下がって間合いを取った。
「おやめなさい。大きな声を出すわよ。」
「もう誰もいませんよ。僕だってそのくらいのことは確認していますから。」
「計画的なのね。これ以上何かすると犯罪よ。分かっているの。」
「警察は会社内の痴話喧嘩なんかには介入しませんよ。刺した刺されたになれば別でしょうけど、僕はあなたを傷つけるつもりなんてこれっぽちもないんだから。」
「人の心を傷つけることは体を傷つけるよりもずっと深い痛手を負わせることもあるのよ。あなたにはそういうことが分かっているの。」
「僕はあなたを傷つけるつもりなんてこれっぽっちもない。ただあなたを少しでも近くに感じていたいだけなんだ。」
営業君は僕の方へ大きく一歩踏み出した。『来るぞ。』と思った瞬間、右腕をつかまれた。口惜しいが、今は力で対抗しても男にはかなわない。僕は体を開いて半身に構えると、左手でこんな時のためにバッグの中に入れてあったあるものをしっかりとつかんだ。営業君は僕を自分の方へと引っ張り込もうとした。
「おやめなさい。ひどい目に遭う前に。これが最後の警告よ。」
営業君はもう何を言っても聞き入れる余裕がない様子だった。まあ、こうなれば普通の男はそうだろう。ぼくも男だから今の営業君の気持ちも分からないでもないが、いやだと言う女相手に無理強いしてはいけない。
それは男の本旨に悖ることになるばかりでなく、思わぬしっぺ返しを食うものだ。世間でも窮鼠猫を噛むと言うじゃないか。追い詰められた弱者を舐めてかかってはいけない。