あり得ないことが、(155)
これはフィクションです。実在の人物、団体等とは一切関係ありません。
まさに営業君が僕を抱きしめようとしたその瞬間、僕は左手につかんだものを営業君の鼻先に突き出してちょいと噴射した。
「うわ、ぎゃあああ・・・。目が、目が辛い。何も見えない。」
営業君は僕の手を離して顔を覆うと絶叫した。
「だから言ったでしょう。やめないとひどい目に遭うって。」
僕は床にしゃがみこんで顔をかきむしっている営業君にそう言ってやった。それから洗面所に行くとバケツに一杯水を汲んで持って来てやった。手間のかかるやつだが、僕が持って来たバケツも掃除用のだから相子かも知れない。
「いい加減にあんたも懲りなさいよ。さあこれで顔でも洗いなさい。私はこれで帰るわ。」
相変わらず派手にうめき声を上げている営業君の前にバケツを置くと僕は荷物を持って部屋を出た。そこに株屋の姉御がやって来た。株屋の姉御はとっくに帰ったはずなのにどうして今頃戻ってきたのか分からなかった。
「どうしたんですか、一体。この騒ぎは。」
「自業自得、水で洗ってしばらくすれば楽になるでしょう。せっかく侵略者を撃退したのだから私はこれで帰るわ。」
狂ったようにバケツで顔を洗っている営業君と呆気に取られている株屋の姉御を残して、僕はさっさと外に出るとタクシーを拾った。途中以前手術をしてもらった医者に寄ってからクレヨン邸へ戻った。営業君も株屋の姉御には世間に背くような行為はしないだろう。
翌日出社するとさっそく人事課に呼ばれた。予想はしていたがやはり営業君の仕業だった。
『夜、仕事を終えて部屋に戻ると何もしないのに僕に部屋から出て行けと言われ、仕事の始末があるのでと部屋に入ろうとするといきなり僕に催涙スプレーを吹きかけられて顔や目に怪我をした。』
それが営業君の言い分のようだった。これまでの経過からそんなこともあるかとは思っていたが、よくもすぐにばれるようなことを言うものだ。人事の担当者から真偽を尋ねられたので「催涙スプレーをかけたのは事実だけど。」と答えた。「え?」という顔をした人事の担当者に僕はさらに続けた。
「ただし彼は夜の九時過ぎに部屋に戻って来て、帰ろうとする私をさえぎって部屋から出さなかっただけでなく、私の腕をつかんで乱暴をしようとしたのよ。
私は何度もばかなことはやめるようにも頼んだけれど彼の方が力が強いし、乱暴をやめようとしないので仕方なく催涙スプレーを彼の顔にかけたわ。
その後水を汲んでやって顔を洗わせているところに株屋の姉御、じゃなくて橋田さんが突然部屋に入って来たわ。スプレーは元々護身用で相手に大きなダメージを与えるようなものじゃないし、洗い流せば炎症も治まると思ったので私はそれで部屋を出て自宅に戻ったわ。帰りに医者に寄って診察だけはしてもらったけど、これが腕に出来た皮下出血の写真でこれが診断書よ。」
僕は人事の担当者の前に突きつけてやった。担当者は慌てて写真や診断書をつかむとどこかに走って行った。どうも昨晩の僕と営業君のことが大分問題になっているようだったが僕が悪いわけじゃないから関係ない。どんな大騒ぎになろうと知ったことか。そのうちに人事課長代理がやって来た。誰が来ようと僕だって立場は課長代理級だ、それがどんな意味があるのか分からないが、負けるものか。
「佐山さん、実は高山君があなたを傷害で警察に告訴すると言って来ている。それで人事としても事実を確認しておきたい。彼はあなたがいきなり催涙スプレーを吹きかけたと言っているが、実際のところはそうでもないようだ。うちの方としては高山君を説得して思い止まらせるつもりだが、佐山さんとしてはその辺の気持ちはどうなんだろう。」
僕としてどうもこうもない。告訴したければ告訴すればいい。僕も告訴するだけだ。どっちが痛い目を見るかよく考えた方が良いとしか言いようがない。
「彼が告訴するというのなら私にも当然それなりの考えがあります。私は不正な侵害を受けていて、さらになお黙って不正を甘受するほどお人好しじゃありません。ところで彼は出勤しているんですか。いるのなら会わせてください。一言言ってやりたいことがあるんです。」
一言の前に『あの馬鹿に』と付け加えそうになって慌てて言葉を飲み込んだが、僕はこの会社では超超タカ派でその名が轟き渡っているのであの馬鹿くらい言っても誰も何とも思わなかったかもしれない。
「今日は通院ということで休んでいます。うちには電話とメールで連絡がありました。」
「じゃあ、私が電話するわ。」
僕は携帯を手に取って営業君に電話した。「はい」という営業君の声が聞こえたので僕は一気に捲くし立てようとして「あんたね、」というとそこで電話が切れてしまった。
この野郎、相手が分かったとたんに電話を切るなんて人をなめやがって。ところがその後すぐに人事に電話がかかって来て僕とは直接話したくないなどと盗人猛々しいことを言ったらしい。話したくないなら最初から僕の周りをうろちょろするんじゃない。