あり得ないことが、(159)
これはフィクションです。実在の人物、団体等とは一切関係ありません。
「まさかあなたのことだからそんなことはないでしょうけど何かしらの見返りを期待しているんじゃないでしょうね。」
「そうよ、当たり前でしょう。金融界の大御所なのよ、なんてね。今のままで生活していけるんだから見返りも何もいらないけど別に悪い子じゃないじゃないじゃない、彼女って。それはあなただってよく分かっているんでしょう。口じゃあずいぶん悪様に言うけど本当は言うほどでもなく思っているんでしょう。それにせっかく良い方に向き始めたのにここで見放したらまたとんでもない方に飛んで行ってしまうわよ。それじゃあかわいそうでしょう。」
やはり誰にも優しい女土方だったがぼくはちょっと悪戯心を起こしてからかってやった。
「ずい分お優しいことだけど本当はあなたの方が彼女に気があるんじゃないの。」
僕がえへらえへら笑いながらからかうと女土方は顔を赤くした。感情を表に表すことが少ない女土方には珍しいことだった。
「あ、赤くなった。図星だ、図星。」
「またそんなこと言って人をからかって。あのね、あなたも聞いたでしょう。日本の金融界を牛耳っているあの大物が、あの子のためには私達のような小娘に深々と頭を下げて。何だか意地らしいじゃない。義を見てせざるは勇なきなりって言うじゃない。こうなったら見てあげればいいわ。」
なるほど流石は女土方、どこまでもお優しいことで。僕にしてもここでクレヨンを放り出すわけにも行かないだろうとは思っていた。さすがの僕も今になれば口で言うほどにはクレヨンが嫌いなわけでもなかったし、面倒を見てやるのはいいのだが、そうは言っても中心になってあのサルの面倒を見るのは一体誰なんだ。
「確かに一番負担になるのはあなたなんでしょうけど。私も協力するからもう少し面倒見てあげようよ。彼女がもう少し落ち着いて一人で歩いて行けるようになるまで。」
僕は黙って女土方に向かって頷いた。僕にしてみれば『もう仕方がないなあ。』と言うのが正直なところだったがどうも女土方にあんな言われ方をしてしまうとそれに逆らうことが出来なかった。
それでも僕は僕なりに条件をつけた。まず一つはクレヨンを大学に復学させることだった。何だかんだ言ってあのサルも三年まで修了しているのだから残りはあと一年、お嬢様女子大の最終年など無きにも等しい程度の授業しか残っていないだろう。これについては金融翁も異存はなかった。そして空いた時間で今の仕事の手伝いをさせる。
社長はクレヨンを非常勤室員として辞令を出したが、僕はクレヨンには正社員に近いことまでさせなくとも、今はアルバイト程度でいいんじゃないかと思っている。それを金融翁に話すと金融翁も同意してくれた。
これには社長の立場や了解も要るんだろうけど、いずれにしても非常勤社員なのだからその辺はうまく都合がつくだろう。そして営業君、株屋の姉御に加えてクレヨンまでも抜かれれば、室で戦力は僕と女土方にテキストエディターのお姉さんだけになってしまう。
いくらなんでも人的には半減、戦力的にも三割方は落ちているだろう。これではちょっと心許ない。それを金融翁に伝えるとどんな企画を検討しているのかと聞かれた。そこで今の企画のあらましを伝えると「最近そんな企画を聞いたことがあるけどなかなか面白そうな企画かもしれない。」と言ってくれた。
「私も少しばかりあちこちの業界に顔が利くので人の手当は何とか出来るかも知れない。篠田君にも私の方から話しておきましょう。その辺は私の方で何とかうまくやりますから良しなに任せておいてください。」
あちこちの業界に少しは顔が利くって、世間の金を握っているこのおっさんがあちこちの業界に顔が利かなかったら、一体この世の中で誰が業界に睨みを効かせているんだ。ところでこのおっさんが「篠田君」と呼ぶ人物は誰あろう僕等の社長のことだ。さすがに僕等の社長もこのおっさんに言われれば受け入れざるを得ないんだろう。
日本の経済界の超大物にべこべこ頭を下げられて僕と女土方はおかしな気分で二階の部屋に戻った。そこにはクレヨンが僕たちを待っていた。僕たちがここに居残ることになったのでずい分とうれしそうだった。しかし金融翁がこれほどメロメロにクレヨンを心配するとなると、クレヨンは北の政所様とこの金融翁の子供と言うことになって社長父親説は崩れてしまう。
勿論クレヨンが誰の子でも良いんだけれど社長と北の政所様の間に出来た世を忍ぶ秘密の愛の結晶という方が責任のない外野としては面白い。もっともクレヨンが愛の結晶というにはちょっと濁りすぎているかも知れないが。