あり得ないことが、(161)
これはフィクションです。実在の人物、団体等とは一切関係ありません。
そんなことを考えているうちに夜が更けてしまった。クレヨンは僕の横で軽い寝息を立てながら熟睡している様子だった。こいつも最初のころは一寸刻みにしてピラニアにでも食わせてやろうかと思ったが、今では時々蹴りを入れたりすることもないではないけれど、それなりに憎らしくはない妹のような存在になっていた。
さあ寝ようと僕はクレヨンの方を向き直るとクレヨンの背中と腰に手を回して抱え込んだ。こういう時はこいつも心得たもので僕の腕の中に潜り込んで自然に体を密着させて来る。そんなことをしながらしばらくクレヨンの感触を楽しんでいたが、そのうちに僕も眠りに落ちて行った。
そして翌朝眼が覚めればまた会社に出社してあの部屋で新たな企画に取り組んだ。それが元から僕の天職だったように仕事に自然に取り組んで終われば自宅に帰った。いや、僕にはもう自宅はなかった。女土方の家が一応自宅になるんだろうけど、世間的には夫婦でもないのだからその生活はどちらかと言えば居候に近かった。クレヨンのところはもちろん他人の家だった。そうか、元々男だった時から根無し草の生活だったがそればかりは体が女に変わっても少しも変わらないんだ。
翌日、金融翁の差し回し達がぞろぞろと社長室にやって来た。企画担当はいかにも銀行のやり手融資担当といった風情で颯爽と社長室に入って行った。他の二人も概ね似たり寄ったりの雰囲気を漂わせながら融資担当の後に続いた。ところが来ると言われていた外国語教育担当者らしい人間の姿が見えなかった。僕にとってはそれが一番大事な人物なのだが、しばらく様子を見ながら待っていたが一向に現れなかった。
社長室から出てきた融資担当とその取り巻きは僕達のところに来るとまた颯爽とコストマネージメントとかマーケッティングとか専門用語を駆使して自己紹介を始めた。まあ要するにこの人たちは僕達がやっている企画が商売として引き合うかということを調査に来たらしい。
僕は経済経営、市場調査などはやや知識不足なきらいがあるので専門用語を交えて立て板に水のごとくにまくし立てられると分からなくなってしまうが、まあ、要するに仕事を手伝ってくれるというよりも自分達が損をしないようにするために来たようだった。損するかしないか検討するよりも損をしないように知恵と汗を出して欲しいものだ。
もっともこの三人のうちの一人は旅行代理店からの派遣でこれは僕達と一緒に汗を流してくれるようだ。それにしても来ると言っている言葉屋さんは一向に姿を見せなかった。そのうちに北の政所様がやって来て、「融資担当とその一派にはなんでも協力してやってくれ」と言い残すとその場に留まることもなくまた忙しそうにどこかに出て行った。
僕はこの三人になんでも自由に見てもらって聞きたいことは聞いてくれと伝えた。一番若そうな旅行代理店から派遣されて来たという男性はお手軽留学の企画を見ながら、「これ、ぽつぽつ出て来ていますけど結構流行りそうな気がするんですよね。」と呟いた。他の二人はあれこれ矢継ぎ早に資料をひっくり返しては何やらメモをしていたが、特に質問はして来なかった。
昼時になると北の政所様が戻って来て、「社長がお待ちですから」と言ってこの三人を連れて行った。どこかで食事でもするんだろう。三人が出て行くとテキストエディターのお姉さんが口を尖らせた。
「あの人たち、一体何しに来たの。偉そうなこと言って書類ばかりめくっていて。何も手伝ってくれないじゃない。」
「あんた、そんなこと言うけどね、いきなり海のものとも山のものとも分けの分からない企画に人やお金をつぎ込むお人好しがいるわけないじゃないの。手伝いに来たのは一番若い人だけで後はこの企画がお金を産むか見に来ているのよ。でもあと一人、言葉屋さんが来ると言っていたんだけど姿が見えないわねえ。」
僕がそう言うとそれまで黙って書類を整理していた女土方が口を挟んだ。
「一人でも二人でも来てくれるだけ良いじゃない。人手なんかいくらあっても良いんだから。さてと、そろそろ良い時間だから私達もご飯を食べに行きましょう。」
女土方がパソコンを閉じるのを切っ掛けに僕達は席を立って食事に出かけた。
食事を終えて戻ってくると秘書から「お客さんが来ている」と告げられた。部屋をのぞくと北の政所様の前に置かれた来客用の椅子に中年の男性が腰をおろして本を読んでいた。先に来ている三人の銀行員や旅行代理店の組織人然とした男性とは全く正反対のジャケットにスラックス姿で組織人の必須アイテムであるネクタイさえしていなかった。
「ちょうど昼休みだったものですから。」
女土方が部屋の入り口で声をかけた。
「食事に出ておりましたので失礼いたしました。副室長の伊藤と申します。」
男性は本から目を上げると入り口に立っている僕達の方を見た。その目線がちょうど僕のそれと合った時僕の頭の中を何かがパチッと光って通り過ぎた。そして理由は分からないが、ずいぶん昔に慣れ親しんだものに出会ったようなとても懐かしい気がしてその場に立ち尽くしてしまった。
「先輩、ねえ、先輩ったら。どうしたの、そんなところでいきなり呆けてしまって。昼に食べたものが悪かったのかしら。それとも怒ってばかりいるから頭がショートしたかな。」
クレヨンが戻って来て余計なことを言うので頭を叩いてやった。
「痛ぁい、暴力女、早く壊れればいいのに。」
クレヨンは悲鳴をあげて文句を言ったが、正直なところクレヨンが声をかけてくれなければ僕はそのまま何時までも立ち尽くしていたかも知れない。
「語学学習プログラム担当の佐山です。よろしくお願いします。」
僕は部屋の中に入って行って言葉屋の男性に挨拶をした。
「富岡です。MJBの方からの紹介で外国語学習の件でこちらに来ることになりました。よろしく。」
言葉屋の男は僕にそう返した後で僕の顔を見ながら「以前にどこかでお会いしたことがありませんでしたか」と尋ねた。