あり得ないことが、(162)
これはフィクションです。実在の人物、団体等とは一切関係ありません。
言葉屋の男は僕にそう返した後で僕の顔を見ながら「以前にどこかでお会いしたことがありませんでしたか」と尋ねた。どうもこの男も僕に対して何かを感じているらしい。
でも今の僕を見て何所かで会ったことがあるなんてことを思うと言うことは要するに元祖佐山芳恵の知人である可能性が高いと言うことだ。佐山芳恵の野郎、馬の骨氏だけでは飽き足らずこんな中年にまで手を出していたのか。不謹慎な女だ。それを背負い込む者の立場になって行動を考えろ。
さっき僕の頭の中で何かが煌めいたのは佐山芳恵の男を求める原始本能が感応したのか。でも熱愛関係だった馬の骨氏と出会った時でもそんなことはなかったから佐山芳恵の原始本能とは関係がないのか。
「ねえ、芳恵、どうしたの。」
女土方が僕の方を覗き込んだ。
「何だか急に呆けたようになっちゃって。具合でも悪いの。」
女土方は何となく訝るように僕を見ていた。
「いえ、大丈夫よ、大丈夫。何でもないわ。」
僕は慌てて繕った。でも何だか足元がふわふわしていて力が入らないような変な気分だった。僕は言葉屋の方に向き直った。
「私が記憶している限りではお会いしたことはないと思いますけど。」
本当は『ここ暫らくの間に限ってはお会いしたことはないと思いますが、本来の佐山芳恵本人ではありませんから、ほんのここ暫らくの間だけしか確かなことは申し上げられませんし、それ以前のことについてはどのようなことがあったとしても私には責任は取りかねます。』とでも言うべきなんだろうけどこんなことを言った日には深夜まで説明しても理解してはもらえないだろうから黙っていた。
「いや、そうですか。それは失礼しました。私も確信は何もなかったんですけど、こんなことを言ったら変に思われるかもしれないけど、あなたを見たら何だかとても懐かしい感じがして。それで何所かで会ったことがあるのかなと思ってしまって。でもやはり初対面でしたね。失礼しました。」
言葉屋は何だか女を軟派しようとしていると思われても仕方がないようなことを言ったが、特にそういうつもりではないようで本当にそこはかとない懐かしさを感じているようだった。それでも僕と言葉屋の二人だけの世界に入り込もうとしているような雰囲気に周りの者は呆気に取られているようだった。そこに他の銀行屋さん達が戻って来らしく社長や北の政所様の声が聞こえた。
「あら、お仲間の方達が戻ったようですよ。」
僕は言葉屋にそう言って融資担当達が戻ったことを告げた。
「え、いや、私はMJBから派遣されていますが、銀行とは何の関係もありません。個人的なつながりで仕事を受けただけです。向こうの人たちとも会ったこともありません。今日が初対面ですが、銀行の人たちには興味はありませんね。」
言葉屋がさらっと冷たく言い放ったところに融資担当とその一派が北の政所様と戻って来た。
「今度MJBから来ていただいた語学プログラムを手伝っていただく富岡さんです。」
女土方が言葉屋を北の政所様に紹介した。
「それじゃあこちらのMJBの皆さんとご一緒の、」
「いえ、全く別で何でもMJBのさる方からの紹介ということです。」
北の政所様は『へえ、そうなの』という表情をしたが特に何も言わずに自席に戻った。
「それじゃあこれでメンバーが揃った様なので今後の業務の進行について打ち合わせをしたいんだけど。」
北の政所様の発言で全員が席に着いた。融資担当とその助手は応接席へ、旅行屋は営業君の席へ、言葉屋は取り敢えず株屋のお姉さんが使っていた場所に座ってもらった。
業務の打ち合わせについては、プロジェクトの基本路線はこちらの企画に従って進行していくこと、当面六カ月以内に現在の「英語を戦うコース」「英語をファッションするコース」に合わせてお手軽留学コースを試験施行して見ること、当面六ヶ月以内に生涯語学学習については基本プログラムとそれに付随するオプションを具体化していくこと、試作商品はMJBとその関連会社などで試験運用してその商品性を評価してみることなどが決定された。
商品開発の方向性は概ね決定したが、言葉屋がおかしなことにクレームをつけて妥協しようとしなかった。それは常勤で出社することだった。言葉屋に言わせればデジタルネットワークが発達した今の世の中でこのような仕事をするのにわざわざ出勤するのは意味がないと言うのだった。
これは一匹狼の言葉屋独特の考え方で組織人にはうまく理解できないかもしれないが、僕には言葉屋の言うことがよく理解出来た。要は時間に縛られるのがいやなのだ。そんなことに労力を使うのならその分を仕事にかけた方が良いという合理的で我が侭な考え方だった。勿論僕は言葉屋を支援してやった。
そりゃそうだろう、僕だってこうなる前は今の言葉屋と全く同じことをしていたのだし、立場が一緒なら僕自身もきっと在宅勤務を強硬に主張したと思うからだ。結局この問題は言葉屋の希望を入れて週に二回打ち合わせなどのために出勤し、それ以外は原則として在宅勤務となった。