賢治の学校 綾

綾には日本一の照葉樹の森などの雄大な自然が残されています。この環境の中で自然農を中心に学ぶ学校作りをingで行っています。人間に備わっている喜びを大事にした学びの場作りを行っています。いい汗でいい笑顔に!!


追悼 伊藤和也

2008年9月6日

働くアウトドアin愛林館! 水俣巡り篇 後編

見田宗介著 「現代社会の理論」(二、環境の限界/資源の限界 A水俣)より引用です。

 

 

 

 

 

 

 

「日本の九州不知火海の、水俣の肥料工場の排水口を中心とする一帯では、1953年頃から猫が狂死し、〈海鳥やカラスが空から落ちて海に突っ込んだりするようになった。〉

 

1955年になると、〈水俣湾に面した漁村のネコは死滅してしまい、ニワトリ、犬、ブタ、イタチまでも狂死するようになった。〉(原田正純 「水俣病は終わっていない」)。

 

その後10年以上もの間、数多くの非業の死者たちを含む数万の被災民の間に、被害を拡大しつづけた有機水銀公害の予兆であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1956年には、熊本大学医学部の研究班によって、異常の原因が肥料工場の排水にあることがほぼ確実であることがつきとめられた。

 

1959年までには、この因果関係は幾重にも確認され、有機水銀化合物による病理も解明されたきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これらの研究を総合して、1959年11月12日、厚生省の水俣病食中毒部会は、〈水俣病は水俣湾およびその周辺に生息する魚介類を大量に摂取することによって起こる主として中枢神経系統の障害される中毒性疾患であり、その主因をなすものはある種の有機水銀化合物である〉と答申をおこなった。

 

この時点でただちにこの肥料工場(チッソ水俣工場)が*アセトアルデヒド関係の操業を停止していれば、〈患者は何分の一かに抑えられていたはずである。〉(原田、 前掲書)

 

 

*アセトアルデヒド・・・人体にとっての有害物質。 発ガン性をもつ。

            シックハウス症候群や二日酔いの原因とも言われている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

けれども、この処置はされなかった。

 

翌11月13日の閣議で、厚生大臣からこの答申が報告されると、時の通産大臣池田勇人氏は、水俣病の原因が企業の公害であると断定するのは〈早計〉であると異例の発言をする。

 

肥料生産の関係工程の操業を停止することは、ここに強力な政策的意思をもって〈留保〉されたまま、その後9年間にわたって、廃水の排出は続行される。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アセトアルデヒドの生産量はこれ以降かえって増大し、1960年代後半に至るまで湾内の水銀量を増加しつづけ、新しい患者を発生しつづける。

 

むしろその前年からの工場廃水口の変更(水俣川への放流)をとおして、被害を広く不知火海全域に拡散してゆく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

水俣病事件の悲惨の大半部分を帰結することとなるこの医学外的な原因・・・事件を記録する多くの著者たちが痛恨をこめて指摘するこの9年間の〈留保〉の背後には、どういう時代の構造があったのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1959年11月13日の閣議で水俣病の公害としての対策を〈留保〉せしめた池田勇人氏は、翌60年首班(しゅはん。内閣総理大臣の意)に指名され、1960年代日本の〈奇跡の経済高度成長〉を主導することとなる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1945年の敗戦とそれにつづく〈戦後改革〉は、日本国家の、憲法を頂点とする法体系と政治のシステム、支配的なイデオロギーを変えた。

 

けれども、農村と都市の構造から家族の形態に至る、日本社会の基本的な構造が変容したのは、1960年代を中心とする、この〈高度成長〉期である。

 

日本における〈現代社会〉の創成期というべき時期である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

池田政権のキャッチワードは〈所得倍増計画〉であるが、その実質をなす構造政策の二本の柱は、農業基本法(1961年)と、〈全国総合開発計画〉(1962年)であった。

 

前者は〈農業構造改善事業〉等に具体化し、後者は〈新産業都市建設促進法〉等として具体化された。

 

このような施策を通して、第一に、公共投資の工業開発への集中、第二に、その裏面として、農村部小農民への保護の打ち切りと、離農して都市に集中するほかのない賃金労働者群の創出、第三に、この施策を支えるための、農業部門の〈近代化=機械化、化学農業化と、農村における生産と生活の手段の商品市場化が実現された。

 

要するに〈高度経済成長〉にとって必要な、@資本、A労働力、B市場、の三者が相関して調達された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

このような構造転換の文脈の中で、(地域工業開発の先駆的モデルでもある水俣の、)チッソがこの当時分担し大量に生産していた窒素肥料の、供給の切れることのない継続は、構造政策の〈二本の主柱〉・・・農業の近代化と工業地域開発の連動する要の一角を構成していた。

 

あの閣議での異例の発言のうしろには、たんなる個別の大企業への監督官庁の保護とてこ入れといった水準をこえる政策的意思が存在していたはずである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

〈水俣病〉事件史の決定的な分岐点である、1959年11月という時点は、巨視的な社会構造の変動という視点からみても、決定的な屈折点だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

前述のとおり、もしこの時点で、厚生省側の調査結果が封じられずに活かされていれば、悲惨な被害の大半部分は、未然に防ぐことができた。

 

6年後の1965年6月には、新潟県の阿賀野川流域で〈第二水俣病〉が発見されたが、その原因は、昭和電工鹿瀬工場の、チッソ水俣工場と全く同じ、アセトアルデヒド工場であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この1959年の〈留保〉が解除されて、政府がはじめてこの公害の原因を正式に認めたのは、9年後、1968年9月26日の、〈政府見解〉とよばれるものであった。

 

それがどのような時点であったかをみると、1959年11月からの9年間の〈留保〉の意味が、いっそう明確にみえてくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第一に、原田正純の指摘するように、チッソと同型のアセトアルデヒド関係工場は、この1968年を以て、相次いで最終的に生産を中止している。

 

時代の基本的な流れであった、電気化学から石油化学への転換の中で、この年旧式の製造工程が、最終的に〈用済み〉となったのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

つまり、被害を予防することにとっては全く意味がなくなった時点になって、初めて原因が認定されている。

 

生産の効率優先という政策のテレオノミー(目的指向)の、露骨な貫徹である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第二にいっそう巨視的にみると、この1968年、日本のGNPは初めてヨーロッパ諸国を抜いて、自由世界第二位の〈ゆたかな社会〉を達成している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

貨幣的な指標で測定される限りにおいては、この時期の日本は史上で〈最も成功した資本主義国〉として、大衆消費社会の展開を実現している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

水俣の汚染公害は、新潟の昭和電工による〈第二水俣病〉、四日市の石油コンビナートによる汚染、富山の神通川下流一帯のイタイイタイ病と並んで、この大衆消費社会の繁栄の、もうひとつの創世記である。」

 

 

 

 

賢治の学校・実習生  緑

 

 

 

 

 

 

 

 

・みんなで声に出してみよう!!今日の「ありがとう」・・・

 

 

                「 ラフメトゥ 」

 

      ウイグル語(中国新疆ウイグル自治区などで使用)

 

 

 

 

 

 

 


2008年9月6日 6:15

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