追悼 伊藤和也
宮崎日日新聞9/3付〈くろしお〉より
「 人生に大切なものは道に転がってはいない。
時には命と引き換えにしか手にできない。
親友との約束を守るため死を覚悟したメロスのように。
アフガンで殺害された〈ペシャワール会〉の伊藤和也さん(31)の周りにも似た光景がある。
その死は無念の一語に尽きる。
いまだに〈なぜ〉の疑問は消えない。
だが、同会の中村哲現地代表は〈私たちはアフガンの人を憎まない。
だけど尻尾を巻いて逃げることもしない。〉と言った。
自らの責任には触れても、殺害犯を憎むことより優先された〈赦し〉。
アフガンの現地の人たちにも心打たれる。
伊藤さんが拉致された際には千人もの住民が捜索。
伊藤さんを慕って隣村からも駆けつけた。
〈恩をあだで返す行為。アフガン人として恥ずかしい〉と唇をかむ。
ここにもまた別の無念がある。
掛川市で行なわれた伊藤さんの葬儀〈お別れの会〉が清涼感に満ちていたのも、彼の死を
包む崇高な空気に触れていたからだ。
アフガンの現地には伊藤さんの足跡を刻んだ〈伊藤農園〉が造られるという。
育つのは〈友愛の種〉に違いない。 」
・・・・・・

現在、紙面やおそらくテレビ上でもアフガンでの伊藤さん拉致殺害事件について、あらゆる怒りや悲しみの意見が飛び交っている。
大衆が興味を失えば(すでに自民総裁選のニュースが一面を奪い返したが。・・・あるいは、大衆というよりメディアの情報選択力によって僕たちは受動的に興味の飛び火していく快感を植えつけられているのかもしれない。)、ニュースは風化してゆき事件自体の記憶も痛みも薄らいでしまうのは、現代が抱えている倫理的ジレンマであると同時に、人間の生き残らんとする狡猾な力強さでもある。
塗り替えられる情報について、簡単に是非を問うことはできないだろう。
僕は、生前伊藤さんにお会いしたこともないし、この事件が起こるまで〈ペシャワール会〉の存在さえ恥ずかしながら知らなかった。
伊藤さんが命を賭して会の活動や意思を世界中に発信したことになる。
どんなに生活の苦しい場所であろうと、自給の生活を営みながら生きる喜びと誇りを回復していってほしい・・・。
おそらく、持続的な生きる術を得たいというのは現地のアフガンの方の切実な願いであっただろうが、生きる喜びや誇りを回復していくのは、関わっている伊藤さんも含めて共有し得た、何よりの賜物であったはずである。
ただ、伊藤さんを美化してしまい感情的な美文や情報ばかりを放り撒くのはどうだろう?
伊藤さんを惜しみ、哀れみ、嘆くほど、その反動としての憎むべき敵を作り出すことに環をかける手伝いをしてしまうのではないのか。
少なくとも、代表の方の言葉を信じる限り、〈ペシャワール会〉は理念としての敵を想定していないはずであるから、善悪を簡略に二分し悪を絶つべく争いを仕掛ける・・・というような原理的な行為には無縁のはずである。
会の内部の人間やおそらく親族までが、恐ろしい絶望感や無力感を引きずりながらも、もっと大きなものを実現するべく(そしておそらくそれが、伊藤さんへのほんとうの供養となろう)微笑みながら、手を差し伸べようとしているのだ。
僕らにできる最善のことは、各人ができると考える最善のことをおのおのの場所で少しずつ実現し続け、たとえ無謀であろうとも、伊藤さんが教えてくれたように〈大きな喜びの世界〉をイメージし続けることではないだろうか?

昨日、田んぼからの帰り道、この子が道路に倒れているのに出くわした。
傍には兄弟だろうか、同じような姿の子が心配そうにおろおろ傍を歩いたり、じっと眺めたりしていたが、僕に気付くと慌てて草むらの中に逃げ込んでしまった。
近づくと怯えたせいだろうか、僕を見ながら勢いよく放尿をした。
よく見れば、排泄物も垂れ流したままであったので、しばらくここで動けないままでいるようだったが、触ってみても特に外傷は無いようだった。
痛みがあるのかどうかすら、その表情からでは僕には全く分からない。
すでに蟻が背中の辺りをうろうろ歩いており、このまま死んでしまうんだろうなと、漠然と感じた。
病院で手をうってもらえば、もしかしたら治癒したのかもしれない。
ゆっくりと身体や頭を撫で続けていたら、そのうち観念したのか安心したのか疲れきって意欲も失ったのか、静かに眼を閉じていく。
僕は、傍らの草薮の中にその小さな身体を運ぶために両手でそっと持ち上げてみた。そのとたん彼は眼を覚まし、必死になって抵抗を試みたが、彼の意志は残念ながら筋肉にはとどかないようだった。
ただその腹部は火照っているといってもいいくらい熱く、心臓は飛び出すんじゃないかっていうくらい激しく鼓動していた。
おそらく彼にとってこんな高さまで抱えられ、運ばれたことは今までにない経験だったのではないだろうか(しかもにんげんによって)。
単純に、その僕の胸くらいの高さにいて移動することに怯えているようにも見えた。
草薮の辺りの草を払い、彼を寝かせて布団代わりに草を身体に被せた。
今思えばこれも人間的な配慮であり、彼にとっては迷惑だったのかもしれないが、ただひたすら声もあげず(そういえば、一度も声を聞かなかった)、されるがままになっていた。
草から出した顔をゆっくり撫ぜるとまた静かに眼を閉じ始めた。
ここで殺してあげたほうが、ほんとうは彼の痛みを長引かせずにいいのではないか・・・と何度も思ったが、できなかった。
鎌はもっていたし、首を一気にかるイメージも膨らましたが、できなかった。
ただ、怖くてできなかった。自分本位な決断だ。
今度会うときには、確実に死んでいるだろうと確信していた。
確信しながら、それ以上に何もできず、ただ手を合わせてその場を去るしかなかった。
近くの森側の方に、さっきの兄弟がまだいる気配があった。
じっとこっちを伺っているのだろう。もしかしたら、ひとりじゃなかったかもしれない。
道路からこの子を抱えあげたとき、草薮からこっちを伺う彼と眼が合った。
薄い緑色のような潤んだ瞳で、ただ心配そうに眺めていた。
僕が薮に入ると彼はどこかに行ってしまったが、決して遠くに行っていない事だけは確かだと思えた。
この子の瞳も薄い緑色をしていて、その表情はまるでにんげんのようにも見える。
なにか、よく知っている人のような気がして、だれだっただろう・・・しばらく顔を眺めながら思い出そうとしたが、ぼんやりしたままだった。
次の日の早朝、田んぼに行く前に覗いてみると、そこには居らずただ刈り落とされた草の布団だけがしっとりと残っていた。
あれ、と思った次の瞬間にはもう、近くの水路に落ちているあの子の姿に気付いてしまっていた。
全身びっしょりに濡れて昨日よりも身体が茶色くよどんで見え、眼を閉じ半分浸かった身体を昨日とは反対向きに横たえながら、死んで浸かったままの口から水が入り続けたのだろう、お腹が大きく膨らんでいた。
自分の意志で飛び込んだのか、何かに引きずり落とされたのか、分からない。
せめて土に還って欲しいという想いから運んだのだったが、今再び運び上げようとは思わなかった。
このまま着実に腐食して、身体を解(ほど)けた有機物質として、ふたたび誰かの身体の構成要素になることだろう。
物質は減ることはない。
出会いと別れの中で、ふたたび旅に出、つかの間の滞在に精進するだけだ。
その繰り返しであり、もちろん僕らもその範疇に在る。
それはきっと、有り難いことなのだろう。

昨日帰ってから、同じ実習生にあの子のことを伝えようと、思い出しながら絵に描いてみた。
その時に描いた絵は、自分が寝かせた向きとは反対向きだったが。
・・・・・・
これを身近な死の体験と呼んでいいのかはよく分からないけど、僕は結局この子のために何もやれていないし、同時におなじくらいの遣る瀬無さで、伊藤さんの死にも何も出来なかった。
ただ、生きることしかできない。
生きて、感じること、思うこと、そして行動や表現にうつすこと。
それが今の僕のすべてであると、あらためて教えていただいた。
感謝しきれない想いをまたひとつかみしめながら、僕はまた明日、田畑に向かうだろう。

賢治の学校・実習生 緑
・みんなで声に出してみよう!!今日の「ありがとう」・・・
「 シュクリヤ 」
ウルドゥー語(パキスタン、インド北部と南部の一部などで使用)