あり得ないことが、(142)
これはフィクションです。実在の人物、団体等とは一切関係ありません。
「ねえ、自分が何をしているか分かっているの。手を離しなさい。」
僕は営業君に向かって静かに言った。騒いで興奮させてもまずいし、自存自衛のために武力行使をするためにも一応警告を与えておかないとフェアじゃないだろう。大体こんなところで強硬手段に出るなんて女の扱いを知らないも甚だしい。こっちはお前の五割増しで男を生きて来た百戦錬磨の壮年男性だったんだ。
「主任、いえ佐山さん、僕はただ分かって欲しいんです。僕の気持ちを。あなたに聞いて欲しいんです。」
こいつは何を訳の分からないことを言っているんだ。今時の高校生でももう少し気の利いた口説き方をするだろうに。それとも確信犯でわざと時間を遅くして機会を狙っていたんだろうか。
「もう一度言うわよ。手を離して。」
次の瞬間、僕はすごい勢いで営業君の懐に引き寄せられた。でも営業君がこういう行動に出るであろうことは想定の範囲だった。押してもだめなら引いてみろと言うが、僕は引っ張り込まれる時に自分から営業君の方に踏み出して右ひざをほどほどの位置まで上げた。次の瞬間、僕の右ひざに硬いものと柔らかいものが同時に当たる感触がした。それは僕自身もずい分長いことお世話になった男を象徴する器官だがその感触はやはり気持ちの良いものではなかった。
「うっ」
僕の腕をつかんでいる営業君の腕の力が急に萎えた。営業君は喉に詰まったうめき声を上げるとそのまま床に膝をついてうずくまった。思い知ったか。強硬手段に出る時はまず自分の弱点を防御してからするものだ。
「手を離しなさいと言ったでしょう。」
僕は下腹部を押さえて床にうずくまったまま動かなくなった営業君にそう言って立ち去ろうとしたが、営業君うめくだけで立ち上がろうともしない。同じ男だけにあの苦しさは良く分かるし、向こうが悪いとは言っても武力行使をした僕にも何がしかの責任はあるのかも知れないので気の毒になって戻って「大丈夫」と声をかけたが、それでも返事もしないでうめいている。
フカシをくれているのかと思って顔をのぞくと真っ赤な顔をしてよだれと鼻水をたらしているのでどうも本当に蹴りが決まってしまったらしい。仕方がないのでしばらく腰を叩いてやって落ち着いた頃に立ち上がらせた。
「まだ痛いの。少し飛びなさい。ジャンプよ、ジャンプ。」
僕は腰を曲げながら立ち上がった営業君のその老人のように曲がった腰を叩き続けながら促した。大体男ならこういう時はどうすれば良いのか誰でも知っている。彼も知ってはいるがどうにも動けなかったんだろう。やっとの思いでよろめくように何回かジャンプした。そうしてようやく落ち着いて来た営業君を椅子に座らせると鼻水と涎を拭いてやった。
「これに懲りてあんなことはもう二度としないでね。今度はこのくらいじゃあ済まないかも知れないわよ。」
駄目押しのつもりで一言脅しておいて帰ろうとすると「待って、ください、そんな、つもりじゃ、ないんです。」と途切れ途切れに営業君の声がした。もう声を出せるようになれば大丈夫だろう。
聞いたところによれば精巣というのは豆腐のようなふわふわとした人体で最も弱く柔らかい組織だそうだが、高温に弱いという致命的な欠陥を補うために人体で最も強靭な腱組織で守られて体の外にぶら下がっている。だからちょっとやそっとのことでは破裂などしないそうだから営業君のも大丈夫だろう。
僕はわが身に降りかかって来た急迫不正の侵害を最小限度の武力行使で排除して戦闘力を失った者に対して救助行為までしたのだから、そのフェアな行為は賞賛に値することはあっても非難の対象になることはないだろう。
ところで世の男達よ、間違っても自分達の勝手な主観的解釈で女性に直接行動を起こしてはいけない。女という生き物は男の想像をはるかに超越した全く同じ人類とは思えないほど男とは異なる思考、感情体系を持った生き物なのだから。
そういうことを理解しないで迂闊な行動に出てあっけなく撃沈されたり完膚なきまでに撃破された男どもがどれほどいたことだろうか。死屍累々とは女を甘く見て斃れていった男どもの屍を見て言った言葉かも知れない。そんなことはないか。僕が廊下に出てエレベーターを待っていると営業君が腹を押さえながら追いかけて来た。
「佐山さん、僕はあなたに何かしようなんて思ったんじゃありません。ただあなたに僕の気持ちを分かって欲しかっただけなんです。」
営業君はそう言うが、お前な、何もしていないどころか人の腕をつかんで抱き締めようとしているじゃないか。そういうのは強制わいせつと言うんだ。畏れながらとお上に訴えればお前はお縄になるんだぞ。立派な成人がそんなことも分からないのか。
「何かをするつもりがないって、あなた立派にしているでしょう。気持ちを伝えたいのならもっと穏やかな方法があるはずよ。それにね、この間も言ったけど職場は仕事をする場所で恋を語る場所でも出会いの場所でもないわ。こんなことをもう一度したら私にも考えがあるわ。」
「本当にすみませんでした。でも僕はあなたに自分の気持ちを伝えたいだけなんです。それを分かってください。」
こんなやり取りをしている間にエレベーターが来た。こいつと二人で乗るのはちょっと躊躇われたけれど時間も遅いしさっきの今だから大丈夫だろうとさっさと乗り込んだ。僕に続いて営業君も乗り込んで来た。営業君は何かを話したそうだったが、何だか僕にはこいつと話しても埒があかないと言う気がして来たので天井を向いて知らん顔をしていた。