あり得ないことが、(150)
これはフィクションです。実在の人物、団体等とは一切関係ありません。
「あなたもいい加減にしなさい。職場は出会いの場でも仲良しクラブでもないわ。仕事をするところよ。いいわね。」
女土方がとうとう怒りを営業君に向けた。
「僕は仕事はきちんとしています。別にそのことで副室に言われる覚えはありません。」
ところが営業君は言うことを聞くどころか女土方に反撃を始めた。もっともこのくらいで言うことを聞くようなら、こいつも普通の範疇に入るんだが。いっそ僕よりも女土方を好きになってくれれば面白いのになんて不謹慎なことを考えていたら、女土方が背筋が寒くなるような厳しい視線を営業君に投げかけながら最後通告をした。
「仕事というのは書類を作ったりものを売ったりすることだけじゃないわ。職場で人の和を保つのも大事な仕事よ。特に皆が良くも悪くも注目している新設の部門ではなお更のことよ。もしもそれが出来ないのなら私にも考えがあるわ。これは脅しでもなんでもないからそのつもりでいてね。いいわね。」
僕は女土方と同棲しているし、深い仲、女と女の体をした男の関係を深い仲と言っていいのかどうか分からないが、にもなっているので彼女の強いところも弱いところも良く知っているんだけどこういう時の女土方は心底怖いと思う。こう言い切った時の女土方はやるとなったら本当にズバッと切り捨てるだろう。
「僕は職場の秩序を乱そうというんじゃありません。ただ自分の恋に素直に思いを遂げたいだけです。それがそんなに悪いことですか。」
テキストエディターのお姉さんとクレヨンが『こりゃだめだ。』と頭の横で小さく手をクルクルと回した。
「もうこんなことを何時まで話していても仕方がないわ。私の言ったことは分かってもらったと思うのでこれ以上何かを言うつもりはないわ。いいわね。」
女土方はそれだけ言うともう何も話さなかった。その辺の見切りのつけ方に誰もが何とも言えない凄みを感じたのか皆黙り込んでしまった。
まあしかしこういう時の女土方は本当に怖いと思う。僕と女土方が普通の男と女の関係でしかも夫婦だったら正面から正論でぶつかった時には絶対に勝てそうもないような気がする。女土方が議論を強制終了したのでその場はお開きとなった。そしてそれぞれ帰り支度を始めたが女土方だけが何となくフラストレーションの溜まった顔で立ち尽くしていた。
「ねえ、エステでも寄って行かない。何だか疲れちゃったわ。」
女土方は僕を振り返った。
「いいわよ。」
僕は簡単に応じたが、エステと言うのがどういう場所か概略は知ってはいるものの詳しいことは知らなかった。概ね「美容マッサージ」という理解の仕方だった。
「どこか知っているところってある。」
女土方は僕にそんなことを聞いたが僕はエステ自体未体験だったので知っているところなどあろうはずもなかった。
「私の知っているところに行かない。いいところよ。」
クレヨンが口を挟んだ。
「あんたの知っているところなんてまたばかっ高いんでしょう。私たちのお財布で行けるわけないでしょう。」
「社長さんからクレジットカード預かっているんでしょう。支払は父の口座から落ちるし細かい金額は見ないから大丈夫よ。だから行きましょう。」
クレヨンは良いとこのお嬢さん育ち丸出しでお気楽なことを言った。
「いいわ、私が使っているところに電話してみるわ。」
女土方はそう言いだした時にはもう携帯で電話をし始めていた。
「午後八時だって。少し時間があるわね。食事でもして行こうか。」
テキストエディターのお姉さんも加わって四人になった僕たちは会社を出ると近所のちょっと高級な鮨屋に行った。
それぞれ自分の好きな握りやちらしを頼んでその他に刺身の盛り合わせを追加した。特に理由はなかったが、まずビールで乾杯してから刺身をつまんだりしながら雑談にふけった。でも飲んだりしゃべったりするのはもっぱらテキストエディターのお姉さんとクレヨンで僕と女土方は聞き役だった。
しかし女という生き物はどうして食い物や衣類、タレント、旅行や娯楽の他に職場の中のどうでもいいような人間関係や他人の噂などに興味を示すんだろうか。他人のことなんて自分に関係が生じない限りどうでもいいだろうと思うのは僕が男だからなんだろうか、それとも僕個人の性格なんだろうか。それにしても食い物や娯楽やファッションにこれだけの関心を示してくれるなら女相手に趣味と英語を組み合わせたプログラムを売り出すのも良いかも知れない。
「ねえ、主任、主任が彼とお付き合いしてあげれば問題は解決するんでしょう。主任、強いんだから適当にあしらって逃げてくれば大丈夫じゃない。職場の平和のためには少しくらいの犠牲はやむを得ないでしょう。そうじゃない。」
ほろ酔い気分になったテキストエディターのお姉さんがまたばかなことを言い始めた。
「あんたが相手をしてやれば。私はご免被るわ。第一そんなことが出来るくらいなら始めからこんなこんがらかった状況にはなっていないでしょう。」
「何ともはっきりして冷たいわね。そういう切って捨てるような素っ気無さが男の情熱を煽るんですよ。『いやよ、いやよも好きのうち』って言うじゃないですか。案外お似合いかも。ちょっと大人になり切れないあどけなさを残した男と男以上に男らしいキャリアの熟女。いいじゃない。」
『いやよ、いやよも好き』のうちなんて言葉に類する言い方は世の中に五万とあるが、どうもこれは男の勝手な都合で作り出された言葉なんじゃないか。根本的に人類の歴史は男性支配の歴史だったので、男に都合の良い理屈が氾濫しても不思議はない。
女だっていやなものはいやだろう。特に相手と肌を合わせるような場合は尚更だろう。太古の昔から男が狩猟や農業あるいは近代では労働報酬という形での経済など生存にかかわる部分を掌握していたから我慢をしてきただけで、女が自分で自活して経済力をつけ始めると男たちは女の反撃に戸惑い翻弄され始めたのが現代の世相だろう。自分で生きていけるのに誰が大人しく自分を殺して他人のために我慢なんてするものか。