高坂先生13回忌に寄せて[高坂節三さん]その2
高坂節三さんからの投稿の続きを紹介します。
兄を思う、その2―吉田茂と『日本を決定した百年』
高坂節三
18期の佐々木さんが吉田茂の著作『日本を決定した百年』の真の筆者が兄であることを産経新聞の産経抄で知ったことを伝えてくれていますが、これについては、復刊された中公文庫の同じ題名の本に、新たに付け加えられた解説『吉田という存在』と言う文章で粕谷一希さんが、その経緯を記しておられますので、その部分を引用させて貰います。
「執筆を依頼された吉田茂は、即座に外務省を通じて高坂正堯氏に代筆を頼んだとのことである。国際的に影響をもつ百科事典への執筆が、如何に重要な意味をもつかを吉田茂は十分認識していたであろうし、しかし八十歳を過ぎた自分として長編論文を書くことは無理と判断したのである。そのとき、長い間の友人を学者の中に数多くもっていた吉田さんが、その友人の一人ではなく、また外務省の役人でもなく、高坂氏に白羽の矢を立てたのは面白いことである。「宰相 吉田茂論」は当時の論壇と政界、官界で高い評価を受けたのだが、吉田さん自身もこれに満足したであろう。高坂正堯教授をいかに信頼していたかがわかる。同時に、吉田さんの若い新人の起用は、その趣味でもあったから、学者の場合にもその趣味が出たといってよいかもしれない」と。
当時のことを思い起こしてみますと、兄はよく父の家に立ち寄り、「吉田のおじいちゃんとの話がなごうなってなー」と言っていました。近くに住んでいた私たち家族は、よく父の家に食事をさせて貰いに行っていましたし、兄が来ることが判ると、母が私たちも呼んでくれていました。その頃は、兄はよく明治の思想についての話を父に聴いていたことを思い出します。(父は和辻哲郎の推薦で『明治思想史』を出版した後でした。――これは現在、灯影舎から京都哲学撰書として復刊されています。)
父が学芸大学長を退任し、国立教育館長に就任したあとは、下馬の学長社宅に居ることができないので、東京近辺に家を探す必要がありました。私が色々と情報を集め、3つの候補地、世田谷、鎌倉、大磯に絞り、父母と一緒に現地を見て廻りました。最終的に父は散歩がしやすい大磯に転居することになりました。これも、いま思うと兄の「宰相 吉田茂論」の影響も少しはあったかも知れません。当時、坂西志保さん、三宅剛さんなども大磯に居られ、坂西志保さんのお宅の梅園を見せて貰いにいったこともありました。兄が吉田邸を訪問した夜、かっての伊藤博文の別荘を改装した中華料理店「蒼楼閣」に行くこともありました。
この論文は、もともとエンサイクロペディア・ブリタニカが百科事典の付録として出している補追年鑑の巻頭論文として書かれたものですが、日本では日本経済新聞社が日本語版を出すと同時に、アメリカでもFrederick A. Praeger 社が『Japan’s Decisive Century 1867-1967』として出版され、日本研究には大いに役立ったようです。
著者については、明治維新を主導した4藩の一つ、土佐のサムライ・ファミリーの出身と紹介してありました。後日、訪日したアマコスト元駐日アメリカ大使と食事をする機会がありましたが、この本が日本を理解するのに大変役立ったと言われました。
(コンパス・プロバイダーズL.L.C. ゼネラルパートナー/東京都教育委員)