純日本車発進! トヨペット・クラウン(1955年)

よくわかる 自動車歴史館 第2話

自力開発の道を選んだトヨタ

戦争が終わって10年後の1955年は、日本の自動車史にとって大きな意味を持っている。トヨタからトヨペット・クラウンが発売されたのだ。戦前から自動車生産は始まっていたし、戦後もさまざまなメーカーが自動車の製造に乗り出していた。それでもクラウンの登場が画期的だったのは、このクルマが“純国産乗用車”の嚆矢(こうし)と呼べるものだったからである。

1945年の9月、GHQは軍需工場を民需に転換させるよう指令を出した。これにより、戦時中に軍用車を製造していたトヨタや日産は、民間用の自動車を製造することになった。ただ、GHQが指定したのはトラックの生産のみであり、乗用車の生産は許可されなかった。三菱重工業や中島飛行機などは解体され、それぞれの工場が鍋や釜などの民需製品を手がけていたが、程なくしてスクーターの生産を始める。 

1947年に1500cc以下の小型乗用車300台の製造が許可され、ようやく日本の自動車産業が復興に向かう。立川飛行機の自動車開発部門は、ガソリン不足を見越して電気自動車の「たま」を発売する。東洋工業やダイハツが製造した簡便なオート三輪も人気を博していた。日産は、ダットサンDA型やDB型というセダンを発表した。しかし、欧米に比べると技術水準は低く、生産台数もわずかだった。 

そこで当時の通産省が推進したのが、欧米の自動車メーカーとの技術提携である。日産がオースチン、いすゞがルーツ、日野がルノーと提携し、ノックダウン生産を行ったのだ。生産を請け負う中で技術を学び、部品の国産化率を高めていったのである。ただ、トヨタはその路線をとらず、自力で国産乗用車を開発する道を選んだのだ。

  • 電気自動車 たま(1947年)
  • ダットサンDA型(1947年)

戦前から追求していた独自路線

豊田 喜一郎氏(トヨタ自動車創業者)
鮎川 義介氏(日産コンチェルン創始者)

1933年、豊田自動織機の中に自動車部が発足した。同年、日産の前身である自動車製造株式会社も設立されている。当時、日本で自動車を量産していたのは、GMとフォードのノックダウン生産を行う工場だけだった。その中で自動車産業を立ち上げるために行動を起こしたのが、トヨタの豊田喜一郎と日産の鮎川義介だったのである。 

日産がアメリカから製造設備を購入し技術者も呼び寄せたのに対し、トヨタは当初から独自路線を追求した。シボレーのエンジンを研究し、鋳造方法を探った。車体に関しては、最先端だったクライスラーのエアフローをモデルにしてデザインを練っていった。そして、1936年に初の量産車トヨダAA型を発表する。はしご型フレームに65馬力の直列6気筒エンジンを積んだ5人乗りの乗用車だった。改良を重ねながら、1943年までに1404台が製造された。 

トヨタは乗用車の生産を拡大しようと試みたが、時代は戦争へと向かっていた。政府からの要請で、軍用トラックの生産を請け負うことになる。志とは異なっていたが、自動車の量産ということでは貴重な経験を重ねていくことになった。それが終戦後に生き、朝鮮戦争特需の際には莫大な受注をこなして利益を上げ、会社の基礎を固めることができたのだ。

  • トヨペットSA型(1947年)
  • トヨダAA型(1936年)

一方で、乗用車の生産に向けての研究も続けられていた。1947年には、トヨペットSA型を発売する。バックボーンフレームと四輪独立懸架を採用した意欲的な製品である。しかし、27馬力のサイドバルブエンジンは非力で、当時の劣悪な道路事情の中ではボディの強度が不足していた。

消費社会の嗜好(しこう)に合致したクラウン

豊田 英二氏(トヨタ自動車元社長)

喜一郎の甥にあたる豊田英二は、アメリカに渡ってフォードやGMの工場を視察した。進んだ技術を学ぶのが目的だったが、実際に見て感じたのは、自分たちの知らないことは何もない、ということだった。これまで積み重ねてきた技術を洗練させていけば、独自に自動車を製造することができるという確信を持ったのである。これにより、トヨタの自主開発路線は確固たるものとなった。 

当時の乗用車はほとんどがタクシー用だったため、開発もその用途に沿って進められた。それと同時に、オーナードライバーも視野に入れていたのが、トヨタの先見性を物語っている。タクシー用とされたのは1955年1月に同時発売されたマスターで、クラウンは自家用車として位置づけられていた。

マスターは耐久性を重視してサスペンションは前後輪ともリーフリジッドが採用されていたが、クラウンは前輪が独立懸架のダブルウィッシュボーンだった。デザインも、無骨なマスターとクロームメッキなどで豪華に装ったクラウンでは大きく異なった。

案に反して、タクシー業界が受け入れたのはクラウンだった。折しも神武景気が始まっており、翌1956年の経済白書には「もはや戦後ではない」と記された。白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫が“三種の神器”と呼ばれてもてはやされ、国民の消費意欲は高まっていた。そこに軽快なスタイルと豪華な装備をそなえ、公称最高速度100km/hと快適な乗り心地を持つクラウンが登場したのだ。耐乏生活の余韻を残すマスターではなく、クラウンが時代の嗜好に合致したのである。

自家用車としても、クラウンは高い人気を集めた。1.5リッターの4気筒OHVエンジンは48馬力を発揮し、そのパワーに合わせて強力なブレーキが備えられた。観音開きドアを特徴とする初代クラウンは、大衆の憧れの存在となったのだ。1960年には1.9リッターエンジンが登場し、「トヨグライド」と名付けられたAT版も追加された。

「かくしてクラウンは、その初代の5年間で現在の国産車の基礎を築き上げてしまう。トヨタの、いや日本の自動車技術はこのクラウンを作ったことで一気に向上したのである」 徳大寺有恒氏は、『ぼくの日本自動車史』でそう述べている。独自開発にこだわってトヨタが作り上げた純国産乗用車は、日本の自動車産業が発展していく礎となったのである。 

1955年の出来事

topics 1

シトロエンDSデビュー

クラウン発売と同じ1955年、パリサロンでシトロエンDSがデビューした。第一歩を踏み出したばかりの日本車とは比べるまでもないが、DSは当時の欧米の水準からしても驚くべき先進性を持っていた。テクノロジー、デザインの両面で、“20年進んだクルマ”と呼ばれたほどである。 1975年までに約145万台が製造され、“20年進んだクルマ”であったことを実証した。大統領の公用車に使われるなどショーファー・ドリブンカーのイメージがあるが、モンテカルロ・ラリーで優勝するほどの戦闘力を兼ね備えていた

topics 2

ジェームズ・ディーン事故死

映画『エデンの東』『理由なき反抗』で一躍人気を博したジェームズ・ディーン1955年9月30日、事故で帰らぬ人となった。 若者の鬱屈(うっくつ)を表現して青春スターの座に躍り出るが、映画『ジャイアンツ』を撮り終えた1週間後、事故で帰らぬ人となった。 クルマ好きだったディーンは、サリナスで行われるレースに出場するためにロサンゼルスから41号線を飛ばしていた。買ったばかりのポルシェ550スパイダーである。途中スピード違反で捕まっていた後も全開で飛ばしていた彼は、目的地近くのY字路で対向車と正面衝突し、即死した。まだ24歳の若さだった。

topics 3

<世相>保守合同で55年体制始まる

戦後GHQの占領体制の中で無産政党が合法化された一方で、保守政党が乱立。日本進歩党、日本協同党などが旗揚げし、離合集散を繰り返していた。労働争議が頻発しており、1950年にはトヨタでも大規模な紛争が勃発してストライキが行われた。社会党や共産党は労働組合を背景に大きな勢力を保っていたのである。社会主義勢力は一定の力を保っており、対抗する保守派は分裂していた。吉田茂の自由党と、鳩山一郎の日本民主党である。 1955年1月24日の“天の声解散”で総選挙が行われ、日本民主党は過半数を制することはできなかった。左右に分裂していた社会党は10月に再統一を果たし、大きな勢力となる。それに危機感を抱いたこともあり、自由党と日本民主党が合同を果たして11月15日に自由民主党が誕生した。自民党の長期政権が始まり、政権獲得の可能性を持たない社会党が第二党として対抗勢力を構成する図式が定着していった。

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[ガズ―編集部]