<技術革新の足跡>ボディー軽量化――軽さは正義だ!(1960年)

よくわかる 自動車歴史館 第9話

航空機技術を取り入れたジャガー

ジャガーXJ(2003年モデル)
ジャガーXJは現在でも総アルミボディを採用している
アウディA8(1997年モデル)

2002年に登場したジャガーXJは衝撃的だった。7代目となり、長らく作り続けられていたボディーデザインが一新されたことも理由のひとつだが、それだけではない。ホイールベースが165mm延長され、ボディーの外寸が一回り以上大きくなったにもかかわらず、重量が増加しなかったことが驚きだったのだ。自動車は安全性や快適性を高めてきたのはいいものの、それにともなってどんどん重くなってきた。特に高級車は高い静粛性と豪華な内装を必要とするため、ヘビー級のボディーが当たり前になっていたのである。

ジャガーXJが使ったマジックは、アルミニウム合金ボディーの採用である。それまでにも、アルミボディーのクルマは存在していた。1990年に登場したホンダNSXは、オールアルミモノコックボディーのスーパースポーツである。アウディA8は、1994年のデビュー時からASFと呼ばれるアルミ製スペースフレームを採用している。ジャガーXJが新しかったのは、航空機技術を取り入れたことだ。リベット接着という方法である。溶接という方法では、どうしても熱膨張によるひずみが生じてしまう。リベットならば、その心配はない。

加えて、エポキシ系の接着剤も用いられている。これによって強度が増し、高い工作精度が得られた。スチールと同じようにアルミ板材を扱うことが可能になったのだ。モノコックのアルミボディーを量産する技術が確立され、生産が容易になった。ジャガーによれば、ボディーの重量は40%ほど軽減されたという。しかも剛性は60%アップしたというからいいことずくめだ。

クラッシュしたマシンをアルミで修復

ボディーの軽量化は、自動車にとって常に重要なテーマだった。重量は、「走る・止まる・曲がる」という基本性能に関わってくる。ボディーが軽くなるということは、力学的には慣性質量が減少するということだ。質量が減れば物質は動かしやすくなるわけで、加速性能と制動性能はともに向上する。軽くなればコーナリング時のボディーにかかる遠心力が減ることになり、速い速度でコーナーを抜けることができる。クルマのスポーツ性能を上げるためには、軽量化が欠かせない。

エコロジーの観点からも、軽量化は重要度を増してきた。軽くなることで加速に要するパワーは少なくてすむようになるのだから、燃費がよくなるわけだ。ブレーキの負担も軽減され、ハンドリングに与える影響も大きい。無駄な重量がかからなければ、耐久性も高まるだろう。軽量化はさまざまな面で自動車の性能向上に寄与する。特に軽量化が大きな意味を持つのは、レースにおいてである。コンマ1秒を争う世界では、わずかでも重量を減らすことが勝負を分けるのだ。

1956年のミッレミリアにアルファ・ロメオ・スプリント・ヴェローチェで出場したプリオーロは、クラッシュしてクルマを大破させてしまう。彼が修理のために持ち込んだのが、カロッツェリアのザガートだった。戦前からアルファ・ロメオに関わっていて、6C1750グランスポルトや8C2300などを手がけている。航空機から発想した軽量で空力的なボディー設計を得意としていた。ザガートは元通りに修復するのではなく、より軽量な新しいボディーを作り上げた。これがSVZ(スプリント・ヴェローチェ・ザガート)と呼ばれるモデルだ。

SVZはもともとのボディーに比べてはるかに軽く仕上がっており、戦闘力がアップしていた。レースに出場すると圧倒的な速さを見せ、優勝を重ねていく。軽量ボディーは評判となり、ザガートには注文が押し寄せた。アルミ板材をたたいて仕上げる手作りの作業なので、製作には時間がかかる。すべて合わせても、作られたのは17台といわれている。

レースで勝つためさらに軽量化を追求

アルファロメオ・ジュリエッタSZ(1960年)
アルファロメオ・ジュリアTZ2(1965年)

アルファ・ロメオの社内でも、SVZは注目を集めていた。軽量化によって得られた性能を、市販車にも取り入れたいと考えたのだ。1959年のトリノショーには、アルファ・ロメオのブースにアルミボディーをまとったプロトタイプが展示された。ジュリエッタ・スプリント・ザガート、SZである。SVZに似ているが、ホイールベースが短くなり、グラスエリアが広げられている。1.3リッター4気筒エンジンは、100psまでパワーを高められていた。
晴れてアルファ・ロメオのカタログに載せられたSZは1960年から本格的に製造が始まり、数々のレースで好成績を収める。車両重量はノーマルモデルより100kg以上軽い785kgだった。軽量化がレースでの勝利に直結したのだ。人気が高まり、1961年までに210台が製造された。そしてさらなる軽量化が試みられ、SZ2が登場する。空力を考えてボディー後端を切り落とした“コーダトロンカ”と呼ばれるボディー形状を持ち、770kgまで軽量化されていた。

SZと並行してザガートが開発を進めていたのが、TZだ。Tubolare Zagato(チュボラーレ・ザガート)の略で、ザガート製の鋼管スペースフレームという意味を持つ。SZが公道での使用が考慮されていたのに対し、TZは純粋なレースカーとして設計された。鋼管スペースフレームとアルミボディーの組み合わせは、660kgという車両重量に結実した。これ以上の軽量化は困難だと思われたが、1965年にTZ2が登場する。ボディーはアルミよりもさらに軽いFRP(繊維強化プラスチック)製となっていた。

アルミボディーの採用による軽量化は、自動車の性能向上に明らかに貢献した。それでも乗用車全体に広がらなかったのは、デメリットもあるからだ。スチールに比べると高価であり、工作も簡単ではない。SZやTZは、基本的に手作りなのだ。壊れた時の修復にも技術を要する。

アウディでは1984年にアルミボディーを試作していたが、A8の登場までに10年を要している。試作品はスチールボディーに比べて53%もの軽量化を実現していたものの、車内での騒音がひどくて使い物にならなかったという。さまざまなネガを消していくのに、長い時間が費やされたのだ。

現在でも、アルミボディーの自動車は多くはない。価格と製造工程の複雑さを考えれば、高級車やスポーツカーにしか使えないのだ。それでも、高張力鋼板を使用するなど、軽量化への努力は大衆車でも行われている。自動車にとって、間違いなく軽さは正義なのである。

1960年の出来事

topics 1

マツダがR360で乗用車市場に参入

戦前から三輪トラックを製造していた広島の東洋工業は、1950年に初の四輪トラックを発売する。その10年後、いよいよ乗用車市場への参入を果たした。軽自動車のマツダR360クーペを発売したのだ。
量産軽自動車初となる4サイクルエンジンは、一部にマグネシウム合金やアルミニウム合金を使う凝ったものだった。AT仕様も用意されていたのは、当時としては珍しい。グラスエリアの広い特徴的なデザインは斬新だったが、室内は狭くてリアシートは子供用だった。
ベストセラーカーだったスバル360よりも安い30万円という価格設定もあって人気を博し、発売前に4500台を受注。この年の生産台数は2万3000台を超えるヒット作となった。

topics 2

オースチンに代わり日産セドリックが誕生

1953年から日産はオースチンA40のノックダウン生産を行っていたが、本国のモデルチェンジに伴い1955年からA50の生産に切り替えた。その経験を生かして1959年にブルーバード310が作られ、その翌年にセドリックがデビューする。
ラップアラウンド・ウインドシールドを採用したデザインは、オースチンからは様変わりしたアメリカ車的なものだった。しかし、メカニズムはオースチンから受け継いだもので、1.5リッターの4気筒OHVエンジンに4段コラムシフトを組み合わせていた。
セドリックという車名は、ホーネットの小説『小公子』の主人公の名前からとられている。彼はイギリスの伯爵家の血が流れるアメリカ生まれの少年であり、このクルマの成り立ちを的確に表しているのだ。

topics 3

所得倍増計画発表

1960年は、ものものしい雰囲気の中で始まった。日米安全保障条約の改定を控え、反対派の大規模な大衆運動が全国で展開されたのだ。6月には国会議事堂近くでデモ隊と警官隊が激突し、東大生の樺美智子さんが死亡するという悲劇が起きた。
条約改定と引き換えに岸内閣は退陣し、池田勇人が首相に就任する。大蔵官僚出身の池田は政策アピールを経済に絞って所得倍増計画を発表し、「私はウソを申しません」の名セリフで支持を集めた。岩戸景気が3年目を迎え、経済規模が拡大して国民の消費意欲も増大していた時期である。
1960年の国民総生産は13兆6000億円で、それを10年で2倍にすることが公約となった。実際には日本経済は予想以上の拡大を見せ、実質国民所得は7年間で倍増したのだった。

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[ガズ―編集部]

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