400万台クラブへの挑戦(1999年)

よくわかる 自動車歴史館 第27話

ジャック・ナッサーの予言

1926年のダイムラーとベンツの合意文書。今日に続く「メルセデス・ベンツ」というブランドは、この時に誕生した。
かつての英国メーカーの合従連衡をうかがわせるBMCの「ADO16」。車名や一部の装備、デザインを変え、6つのブランドから別々のモデルとして販売された。

1999年、当時フォードの社長だったジャック・ナッサーは、東京モーターショーを前にして自動車業界の展望を語った。
「21世紀に生き残れるメーカーは、フォード、GM、ダイムラークライスラー、トヨタ、それとフォルクスワーゲンだろう。日産・ルノー連合は不透明でなんとも言えない」
自動車メーカーは自らの生き残りをかけ、合従連衡を繰り返していた。経済のグローバル化が進み、企業規模を大きくしなければ競争に勝てないと考えられていたのである。

その頃よく話題になったのが、400万台クラブという言葉だった。生き残れるかどうかの分かれ目は、年間400万台の生産台数を確保できるかどうかだというわけだ。大衆車から高級車までフルラインナップをそろえ、増大する研究開発費を負担するためには、このくらいの規模が必要だと信じられた。

しかし、現在400万台クラブという言葉を使う人はほとんどいない。この数字は、意味を失ってしまったのだ。当時も、はっきりした根拠が示されたわけではなかった。ジャック・ナッサーも、先の発言に続いてこう言っている。
「あと残るとすればBMWとホンダだろう。なにしろこの2社には強いブランド力がある」
自動車メーカーの力は規模だけで決まるのではないと、ナッサーも考えていた。

自動車会社が提携したり合併したりするのは珍しいことではなく。古くから間断なく行われていた。ガソリン自動車の誕生に関わったベンツとダイムラーは、1926年に合併してダイムラー・ベンツとなった。イギリスではモーリス、オースチン、ライレーなどが合併してBMCとなり、さらにローバーやレイランドなどを加えてBLMCが生まれている。アメリカのゼネラルモーターズ(GM)は、ビュイックを中心にオールズモビル、キャデラック、オークランドなどが集合したメーカーである。

ダイムラークライスラーの衝撃

合併の文書に調印するダイムラー・ベンツのユルゲン・シュレンプ会長と、クライスラーのロバート・イートン会長。
クライスラーPTクルーザー
クライスラー・クロスファイア

しかし、1999年に自動車業界を覆っていた空気は、それまでとは異質なものだった。前年の1998年、ダイムラー・ベンツとクライスラーが合併してダイムラークライスラーが誕生したことで、誰もが状況の深刻さを知ることになったのである。
ダイムラー・ベンツはメルセデス・ベンツという世界に冠たる高級車ブランドを擁するドイツの雄であり、クライスラーは自動車大国アメリカのビッグスリーの一角だ。この2社が合併しなければならないなら、ほかのメーカーも何らかの策を講じる必要があると考えるのは必然だった。

クライスラーは1970年代に日本車のシェア拡大に対抗できず、経営危機に陥った。フォードから迎えたリー・アイアコッカのもとで構造改革を進めて苦境を脱したが、そのアイアコッカが1992年に引退した後、彼自身がクライスラーの脅威として戻ってくる。投資家のカーク・カーコリアンと組み、買収を企てたのだ。この試みは失敗に終わるが、会社の威信は傷付けられることになった。

一方、ダイムラー・ベンツは高級車の分野で揺るぎない地位を確立していたものの、生産台数を拡大して収益を向上させるためには大衆車部門を充実させる必要があった。クライスラーは大幅な利益の減少に苦しみ、ストライキや製造物責任訴訟を抱えて身動きがとれなくなっていた。双方が互いを必要としていることが次第に了解されるようになり、世紀の大型合併が実現した。形としては対等だったが、ダイムラー・ベンツからはクライスラーに360億ドルの資金が提供されていて、実質的には買収ともいえた。

市場は大西洋をまたにかけた歴史的な合同を歓迎し、株価は上昇した。翌年のデトロイトショーではユニークな新車のPTクルーザーが脚光を浴び、発表されたコンセプトカーも好評だった。しかし、半年後に収益報告書が提出されると、一気に熱が冷めた。ジープとメルセデス・ベンツは売り上げを伸ばしたものの、利益は一向に増えていなかったのだ。ヨーロッパとアメリカの文化の違いはさまざまな摩擦を引き起こし、不協和音が高まっていった。

それでも、合併は新しい動きを生み出してもいる。2003年に発売されたクロスファイアは、メルセデス・ベンツSLKをベースに開発されたクーペ/ロードスターだった。2004年にはEクラスのサスペンションやトランスミッションを流用したクライスラー300が誕生している。協業によって、新たに魅力的な製品が作り出されたのだ。

400万台から1000万台へ

BMWの傘下で開発されたロールス・ロイス・ファントム。
2003年に登場したベントレー・コンチネンタルGT。長らくロールス・ロイスの兄弟車を販売してきたベントレーにとって、久々の独自モデルとなる。
ルノー・日産アライアンスのカルロス・ゴーンCEO。
ミドルサイズSUVのルノー・コレオス。日産のエクストレイルやデュアリスなどと、プラットフォームを共有している。
2012年9月の会見において、「2016年度に全世界で年間600万台以上の販売を目指す」と述べたホンダの伊東孝紳 代表取締役社長。

ダイムラークライスラーが誕生した年には、BMWとフォルクスワーゲンもロールス・ロイスの買収をめぐって激しい争いを繰り広げている。どちらも世界最高級のブランドをわがものとするため、全力で争奪戦を演じたのである。買収金額の上乗せや法的な争いが展開され、1999年にBMWがロールス・ロイス、フォルクスワーゲンがベントレーを手に入れるという痛み分けの結末を迎えた。この買収劇は規模の点では大きなものではなかったが、超高級ブランドをめぐる派手な応酬は業界再編の機運をさらに高めた。

1999年、フォードはボルボを傘下に収めている。元から所有していたリンカーン、すでに手に入れていたアストンマーティンとジャガーの4ブランドでプレミア・オートモーティブ・グループ(PAG)を発足させた。さらに2000年にはBMWからランドローバーを譲り受け、PAGに加えている。

日本もこの動きと無縁ではいられなかった。マツダは1979年から筆頭株主だったフォードが1996年に出資比率を33.4%に引き上げたことで、名実ともに陣営に加わった。

それ以上に日本メーカーの焦点となっていたのは、日産の動向である。2兆円もの有利子負債を抱えて窮地に陥っており、国内外で提携先を探っていたのだ。ダイムラークライスラーも候補の一つだったが、彼らが選んだのはフランスのルノーだった。1999年3月、日産はルノーとの資本提携を発表する。CEOとして送り込まれたのが、ルノーの副社長だったカルロス・ゴーンである。「日産リバイバルプラン」を発表した彼は徹底的なリストラを推進し、構造改革を成功させて日産を立ち直らせた。ルノーと日産でプラットフォームを共用し、部品の共通率を高めて効率化を追求している。

大規模な再編の嵐の後、さらに激変が襲った。ダイムラークライスラーは、すでに消滅している。クライスラー部門は55億ユーロでアメリカの投資会社サーベラス・キャピタル・マネジメントに売却され、9年間にわたる協業に終止符が打たれた。その後リーマン・ショックによる不況のあおりを受け、2009年にクライスラーはGMとともに破産法の適用を受ける。資金不足の中フィアットが持ち株の20%を取得し、2014年1月にさらに株を買い増してクライスラーの完全子会社化を発表した。これにより、世界第7位の自動車グループが誕生することになる。

フォードはラインナップの縮小を図り、PAGを解体した。ジャガーとランドローバーはインドのタタグループに、ボルボは中国の浙江吉利控股集団に売却された。マツダも2010年にフォードの関連会社ではなくなっている。GMは富士重工業、いすゞ、スズキと結んでいた提携を、すべて解消した。10年と少しの間に、業界地図は大きく書き換えられた。

400万台クラブという言葉は意味を失い、今取り沙汰されているのは1000万台という数字だ。トヨタ、GM、フォルクスワーゲンがこのラインをめぐって競い合っている。2008年からの世界的な販売の落ち込みをいち早く克服したのがこの3社だ。それに続くのがルノー・日産連合とヒュンダイである。さらにフォード、フィアット・クライスラー、PSA(プジョー/シトロエン)が控えている。

1990年代に250万台規模だったホンダは再編の動きから距離をおいて自主路線を貫いたが、2013年度の販売台数は400万台を突破した。そして600万台という意欲的な目標を掲げ、拡大路線を選択した。いたずらに規模を追い求めて足をすくわれることもあるが、ある程度のスケールがなければ生き残るのはむずかしい。単なる数字合わせではなく、将来の自動車像を見据えたビジョンと戦略が問われているのだ。

1999年の出来事

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FRのスポーツカー、ホンダS2000発売

ホンダ S2000

ホンダ創立50周年記念として1998年に発表されたS2000が、翌1999年4月に発売された。「S500/600/800」で本格的な四輪進出を果たしたホンダにとって、FRのオープン2シーターは原点ともいえる特別なクルマだった。

2リッター自然吸気で250馬力を絞り出すエンジンはVTECの究極の姿で、「エンジンのホンダ」の意地を感じさせた。高回転にこだわり、レブリミットは9000rpmに設定されていた。ピストンスピードはF1並みで、サーキットで培ったテクノロジーを惜しみなくつぎ込んだのである。

トランスミッションはマニュアルのみで、それも硬派なイメージを補強した。翌年追加されたtype V はVGS(可変ギアレシオステアリング)を装備し、ロック・トゥ・ロックはわずか1.4回転というクイックさだった。

2006年にマイナーチェンジを受け、エンジンのストロークを伸ばして2.2リッターに排気量を拡大した。北米でトルク不足を指摘されたことを受けての変更である。パワーが8psダウンしたもののトルクが0.3kgmアップし、レブリミットは1000rpm下の8000rpmに制限された。高回転好きには寂しい話だったが、実用性は向上した。

それでもATモデルが登場しなかったのは、市場調査をしたところまったく需要がなかったからだという。2009年に生産終了が発表されると駆け込み注文が押し寄せ、2カ月ほど延長して生産が続けられた。少数ではあったが、熱心なホンダファンに支えられたクルマだった。

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ホンダがHVのインサイトを発売

ホンダ インサイト

トヨタ・プリウスに遅れること2年、ホンダからハイブリッド乗用車が発売された。当時の量産ガソリン車として世界最高となる35km/リッター(10・15モード)の燃費を引っさげての登場である。

プリウスとは方式が異なり、IMAと名付けられたハイブリッドシステムは走行時には常にエンジンが動いているのが特徴だった。システム自体の効率ではプリウスにはかなわなかったが、低燃費を実現するためにボディーに工夫が凝らされた。CR-Xに似たデザインは徹底的に空気抵抗の低減を目指しており、Cd値は0.25だった。リアにはホイールスカートを採用して、ホイールハウスが空気の流れを乱すのを防止した。

軽量化にも意欲的に取り組み、アルミフレームを用いてフェンダーには樹脂材を使っている。その結果、MT版では車重がわずか820kgとなっていて、燃費向上に大きく貢献している。スペックではプリウスを上回ったものの、販売台数では大きく差をつけられた。5人乗りのプリウスに対してインサイトは2シーターのクーペであり、実用性ではまったく対抗できなかったのである。

初代モデルは2006年に生産を終了した。合計販売台数は、約1万7000台である。2009年、コンセプトを一新した2代目が登場する。コストのかかるアルミフレームは採用せず、ボディー形状は5人乗りのハッチバックとなった。このモデルも2014年に生産を終えている。

ホンダは2012年にIMAに代わる3種類のハイブリッドシステムを発表し、低燃費なコンパクトカーから高出力のスポーツカーまでをカバーする構想を示した。

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欧州共通通貨ユーロ導入

ヨーロッパでは第2次大戦後の新たな体制を構築するため、汎(はん)ヨーロッパ的な枠組みを作ろうという動きが発生した。大きな傷跡を残した戦争の反省から、対立を未然に防いで平和を確立するための努力が続けられたのである。 経済的な結びつきの強化が最初に推進され、1951年に欧州石炭鉄鋼共同体を設立するためのパリ条約が締結された。参加国は、フランス、イタリア、ベルギー、オランダ、ルクセンブルク、西ドイツの6カ国である。これを基礎として1957年に欧州経済共同体(EEC)が作られ、1986年までに加盟国は12カ国まで拡大している。 政治的な統合の試みも行われ、1993年に欧州連合(EU)が発足する。欧州議会は加盟国共通の問題を審議し、欧州委員会が政策を執行する。これによって自由と民主主義を基盤とした欧州の共通の価値観づくりが進められていった。 経済的な統合を進めるため、課題となっていたのが通貨の共通化だった。1992年、マーストリヒト条約によって通貨統合が正式な目標とされ、1994年には欧州通貨機構が設立された。1999年、欧州中央銀行のもとにユーロの流通が開始した。ただし3年の猶予期間が設けられ、実際にユーロ紙幣やユーロ硬貨が導入されたのは2002年である。 これによって欧州の経済統合は進んだが、各国の経済力が平準化しているわけではないのでさまざまな弊害も指摘されている。イギリスは今もポンドを通貨としており、ユーロには参加していない。

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[ガズ―編集部]