日産――ダットサンブランドの魂(1934年)

よくわかる自動車歴史館 第87話

快進社が作ったDAT号

2012年、日産はダットサンブランドの復活を発表した。1981年にグローバルなブランド名を“NISSAN”に統一する方針が定められて以来、それまで“DATSUN”の名は消滅していた。新しいダットサンは新興国向けのエントリーブランドという位置づけである。日本には導入されていないものの、2014年からインドやインドネシアでコンパクトカーのGOが、ロシアでコンパクトセダンのon-DOが販売されている。

2012年3月の記者会見において、ダットサンブランドの復活について語る日産自動車のカルロス・ゴーンCEO。後ろに新生ダットサンのブランドロゴが見える。

かつては日本でもダットサンは人気ブランドだった。サニーやブルーバードはダットサンから登場したモデルであったし、アメリカでは“ダッツン”と発音されて親しまれていた。ダットサン・トラックは手軽で頑丈な小型商用車として、世界中に輸出されて庶民の生活を支えた。そもそもダットサンの名前は、日産自動車という会社よりも長い歴史を持つ。ルーツをたどると、日本の自動車産業が生まれようとしていた時代に行き着くのだ。

1902年に農商務省の海外実習練習生としてアメリカに渡った橋本増治郎は、自動車の時代がやってくることを確信した。帰国後は工作機械工場や炭鉱で技師として働いていたが、その間も欧米に追いつくために日本に自動車産業を起こすことを夢見ていた。1911年、橋本は東京・広尾に快進社自動車工場を設立する。ヨーロッパの自動車のボディー架装や整備・修理などを請け負いながら、国産乗用車作りを目指したのだ。自動車を造るにはばく大な資金が必要になる。財界の有力者だった田 健治郎、青山禄郎、竹内明太郎の支援を受け、橋本は日本の交通事情に合う小型乗用車を設計した。

快進社の創始者である橋本増治郎。

最初は直列4気筒エンジンを作ろうとしたが、当時の日本では複雑な形状のシリンダーブロックを鋳造する技術がなかった。代わりにV型2気筒の10馬力エンジンを製造し、1914年に完成させたのがDAT号である。田、青山、竹内のイニシャルを組み合わせた名前で、脱兎(だっと)の意味も込められていた。DAT号は東京大正博覧会に出品され、銅杯を獲得する。

DAT号と快進社の従業員。

陸軍の要請でトラック製造が始まる

一方大阪では、久保田鉄工所を中心として自動車を造ろうという機運が盛り上がり、1919年に実用自動車製造が設立された。アメリカ人技師のウィリアム・ゴルハムの指導を受け、三輪自動車のゴルハム号の製造が始まる。月産100台規模の工場を建設し、万全の準備を整えた上での船出(ふなで)だった。輸入車の半額程度である1500円という安さが売りだったが、売れ行きはかんばしくなかった。コーナーで転倒する事故が多発し、安全性に疑問を持たれたのだ。急いで四輪車に作り変えたものの、それでも状況は改善しなかった。

実用自動車製造の三輪自動車。右端に写るのが、開発を指揮したウィリアム・ゴルハム。

快進社も苦戦していた。1916年に直列4気筒エンジンを搭載した41型乗用車を完成させたが、その頃には輸入車の値段が下がっていて競争力を持てなかった。橋本は会社を存続させるために、41型をベースにトラックを製造する方針に転換する。乗用車の分野では輸入車が圧倒的な力を持っており、とても太刀打ちできる状態ではなくなっていた。

1916年に登場した快進社の41型乗用車。

トラックを製造しようと考えたのは、陸軍がトラックの国産化政策を進めようとしていたからだ。第1次世界大戦で人員や物資の輸送に自動車が役立つことがわかり、民間企業に製造を委託しようと考えたのだ。軍が定めた条件を満たすトラックを軍用保護自動車に認定して補助金を給付する制度が作られると、複数の企業が商用車の製造に乗り出した。

ガス器具や電気器具を製造していた東京瓦斯電気工業も、これを機に自動車産業への進出を決めた一社だ。大倉喜七郎の日本自動車で技師長として働いていた星子 勇をスカウトして責任者に据えると、砲兵工廠(こうしょう)からの支援も受けて開発を進め、1918年に保護自動車第1号となるトラックの生産を開始した。また、イギリスのウーズレー社と提携して乗用車製造の計画を進めていた東京石川島造船所も、商用車製造への転換を図っていた。快進社と同じく、乗用車は事業として成り立たないと判断したのだ。ウーズレー社のCP型トラックを手本にした試作車が保護自動車に認定されたのは、1924年のことだった。

東京瓦斯電気工業が製造したTGE-A型トラック。保護自動車の第1号であると同時に、国産としては初の量産トラックとなった。

快進社もトラックを試作し、1922年に審査を申請した。しかし、結果は不合格だった。瓦斯電や石川島と違って快進社の規模は小さく、陸軍はまともに相手をしなかったのだ。交渉の末にようやく認定されたのは1924年である。それでも経営状況は好転せず、1925年に快進社は解散してダット自動車商会として再出発する。一方、大阪の実用自動車は四輪乗用車のリラー号を開発して販売していたが、販売は低迷して経営危機に陥っていた。陸軍のあっせんで両社は合併して生き残る道を模索する。1926年にダット自動車製造が設立され、実用自動車の工場でダットの保護自動車が製造されることになった。

DATの息子として生まれた小型乗用車

ダット自動車製造は、乗用車の事業も諦めていなかった。内務省が制定した排気量500ccの小型自動車規定に合致する乗用車を開発したのだ。ボディーサイズは全長2710mm、全幅1175mm、エンジンは水冷直列4気筒で、最高出力は10馬力だった。1930年に試作車が完成し、大阪~東京間で運転テストを行い、耐久性を実証した。

車名はDATの息子という意味を持つDATSON(ダットソン)に決まった。DATの意味は、Durable(耐久性がある)Attractive(魅力的な)Trustworthy(信頼できる)に改められた。ただ、DATSONのSONが日本語の“損”に通じるから縁起が悪いという声が多かったことから、1932年にSONを太陽のSUNに変えてDATSUN(ダットサン)としたのである。

1933年式ダットサン12型フェートン。ダットサンという名称は1932年の10型から採用された。

この小型乗用車はオーナーカーとして開発されたもので、量産を前提としている。生産体制を拡大するためには、資本を充実させる必要があった。資金を提供したのは戸畑鋳物である。同社は鮎川義介が設立した北九州の町工場から発展し、小型船舶用発動機の製造で成功を収めていた。鮎川は久原鉱業を傘下に収めて日本産業と改称し、多くの企業を買収して日産コンツェルンを形成。1931年にはダット自動車製造の経営権を取得した。

日産コンツェルンの創始者である鮎川義介。名家の出身でありながら身分を隠して職工として働いたり、労働者として渡米して金属加工を学んだりと、技術者としては現場を重視する姿勢の持ち主だった。

ちょうどその頃、陸軍は保護自動車の製造を一本化して効率を高めようと考えていた。瓦斯電、石川島、ダットの3社を合併させて規模を拡大することを目指したのだ。1933年、石川島はダットの製造権を譲り受け、自動車工業株式会社が成立する。この会社にはその後瓦斯電も合流し、1941年にヂーゼル自動車工業へと発展していった。

一方、鮎川は大阪のダットの工場を手に入れ、戸畑鋳物自動車部として小型乗用車の製造を継続した。彼はゼネラルモーターズとの提携を模索し、戸畑鋳物と日産の共同出資で自動車製造株式会社を設立する。しかし陸軍は外資系自動車メーカーを排除する方針を取っていたので、提携は実現しなかった。単独での事業存続へと方針を転換した自動車製造は、横浜に月産1000台規模の工場を建設。小型乗用車の量産体制を整え、本格的に乗用車製造に取り組んでいった。

当時の横浜工場の様子。1935年にはコンベヤーラインが完成し、年産3800台の量産を可能にした。

1934年、自動車製造は社名を日産自動車に変更する。1937年にはダットサンの販売台数は年間3500台に達しており、小型車の代名詞的存在になっていた。小柄な芸者が“ダットサン芸者”と呼ばれたほどで、ダットサンの名は広く浸透していたのである。戦時中は国策で軍用車の生産を命じられ、乗用車の生産は中断を余儀なくされる。技術の進歩も停滞したが、戦争が終わると日産はライセンス生産の形で乗用車生産を再開。新しい技術を吸収し、1955年にダットサンセダン(110型)を発売した。快進社が志した国産車の夢は、ブランドの魂となって今日も受け継がれている。

日産が戦後に設計を行い、1955年に発売したダットサンセダン(110型)。写真は、1956年6月の改良を受けて登場した113型。

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DAT号のライバル

東京大正博覧会でDAT号が銅杯を獲得した時、その上の賞である銀杯を得ていたクルマが2台あった。宮田製作所の旭号と東京自動車製作所の乗合自動車である。

宮田製作所は自転車メーカーとして成功を収め、1907年から自動車の開発に取り組んでいた。フランス車やイギリス車を参考にしてエンジンやトランスミッションを独自設計したという。

東京自動車製作所は板金工場の山田鉄工所が元となっており、アメリカ車の修理を請け負ったことがきっかけで自動車の設計を始めた。乗用車からバス、トラックにも手を伸ばしている。

どちらも当時としては高い技術力を持っていたが、数年で自動車製造から撤退した。利益を上げる事業に発展させるめどが立たなかったためだ。苦労を重ねて自動車を造り続けた快進社だけが、後世に名を残すことになった。

東京自動車製作所は日本最古の自動車メーカーといわれている。1907年に国産初のガソリン自動車、通称「タクリー号」を製作したのも、同社の吉田真太郎と内山駒之助だった。

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ブランドを確立したフェアレディZ

日産は1950年代の中盤からアメリカに輸出を開始する。1960年に渡米し、同社の躍進を支えたのが片山 豊である。彼は販売を伸ばすためにブランド力を高めるスポーツカーが必要だと考えていた。

当時、アメリカ日産はフェアレディ1500をダットサン・スポーツ1500の名前で販売していたが、オープンカーなのでユーザー層は広がらなかった。彼はパワフルなクローズドタイプのスポーツカーを作るように提言する。

日本で1969年に発売されたフェアレディZを、翌年ダットサン240Zとしてアメリカに導入した。ジャガーEタイプが1万ドルで売られていたのにZはわずか3600ドルという破格の値段で、爆発的なヒットとなる。

狙い通りにダットサンのイメージリーダーとなり、セダンの510とともにブランドを確立する。Zは月に5000台のペースで売れ続け、スポーツカーの販売記録を塗り替えた。

ダットサン240Z(日本名:フェアレディZ)と片山 豊。片山は「Z-car」の生みの親として、「ミスターK」のニックネームで親しまれた。

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復活ダットサン第1号はGO

NISSAN、infinityに続き、今日の日産にとって3番目のブランドとなったのがDATSUNである。新興国向けのエントリーカーとしての位置づけで、将来における日産の世界戦略を担うブランドといえる。

復活ダットサンの最初のモデルとなったのは、2013年7月にインドで発表されたGOである。マーチより一回り小さいサイズの5ドアハッチバックで、1.2リッターエンジンを搭載する。

2カ月後の9月には、インドネシアで第2号モデルのGO+が発表された。同じ1.2リッターエンジンを使った3列シート7人乗りのコンパクトミニバンだ。

日産は全販売台数の2分の1から3分の1をダットサンブランドとする目標を立てている。アジアに加え、アフリカ、ロシアに向けてラインナップを拡大していく計画だ。

2013年にインドで初公開された、ダットサンGO。

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[ガズ―編集部]