富士スピードウェイの思い出(後編)

超高速30度バンクで注目された富士スピードウェイだが、6kmのフルコース以外にも戦いの場があった。ストレートの終わりで右に急転回し、バンクを通らずに元のコースに合流する1周4.3kmのショートコースである。初期にはこのショートコースが、フルコースとは逆の左回り(反時計回り)で使われることも多かった。バンクを使わないぶん安全だと思われていたが、長い下り勾配が続く第1コーナー(フルコースの最終コーナー)への突っ込みにはかなりの度胸が必要で、どちらにしてもハイスピード勝負が売り物であることに変わりはなかった。

1972年の日本オールスターレースの様子。レースカーの向きとコントロールタワー、メインスタンドの位置に注目。富士スピードウェイではいわゆる“逆まわり”でレースが行われることも多かった。

基本の右回り(時計回り)での勝負どころは、最高速から2速までシフトダウンして突入する第1コーナーで、曲がりながらハードブレーキングするのでバランスを保つのが難しかった。特に1974年からは、大きな事故が続いたバンクの使用をやめたため、ここでの競り合いが数々の名勝負を生んだ。1976年と1977年、日本で初めてF1グランプリが開催された時も、このショートコースが決戦の舞台だった。

日本で始めてF1世界選手権が開催されたのも富士スピードウェイだった。写真は1976年のシリーズチャンピオンに輝いた、ジェームス・ハントのドライブするマクラーレン。

それが1980年代に入るとたびたび改修を受けるようになり、第1コーナーが直角の組み合わせになったほか、高速100Rと踏みっぱなしの最終コーナーの手前にシケイン状の部分が新設され、富士スピードウェイの性格がかなり変わった。いずれも高速から急減速しながら戦う迫力がすごく、第1コーナーを見下ろす土手の上にワンボックスワゴンをずらりととめ、自炊でカレーや豚汁を楽しみながら一日を過ごす光景も多く見られた。

そして2000年、それまでの三菱地所からトヨタが経営を引き継ぎ、2003年から1年以上も営業を休止するほど大規模な改修(改築)を行ったのが現在の富士スピードウェイの姿。今あるF1サーキットの多くを手がけたヘルマン・ティルケに設計を委ねたのは、あらためてF1を招聘(しょうへい)するために適したコースレイアウトにしやすいと考えられたためだ。これによって富士スピードウェイの性格は激変した。簡単に言えば、ハイスピード一本やりだったそれまでとは違う意味でドライバー泣かせの難コース。1周4.563kmの前半はいかにも富士といえる高速区間の連続だが、後半はくねくねコーナーが続くヒルクライム区間で、ドライビングにもクルマのセッティングにも正反対の要素が求められる。前半を景気よくカッ飛んできたままの心理状態で臨むと、丁寧にこなさなければならない後半では激しい欲求不満に襲われるのだ。それでも全般的にランオフエリアが広く、たとえコースアウトしても激しくクラッシュする危険は減った。

大改修の直前、2003年8月に開催された全日本GT選手権第5戦の様子。かつてのメインスタンドの様子がよく分かる。

もちろん路面も全面的に舗装し直されたし、ピットビルディングなど関連施設も大きく快適に作り直され、世界でも第一級のサーキットになったが、新しい富士スピードウェイには不運も待ち受けていた。せっかくF1開催にこぎ着けたというのに、2007年のイベントは大雨に災いされて混乱し、2008年に向けて観客席の大改修などを余儀なくされたものの、2009年にはリーマン・ショックに伴う不況などを理由に開催を断念せざるを得なかったのだ。その結果、F1日本GPは、再び鈴鹿へと帰っていくことになる。

富士スピードウェイの改修は、2003年9月から2005年4月まで、1年以上の時間をかけて行われた。

それでも、これでもかというほど巨費を投じた施設は残るから、今僕たちは、いくら望んでも望み得ないほどの環境で、心ゆくまでサーキットドライブを満喫できている。ピットから仰ぎ見ると、近代的な輪郭のグランドスタンドの向こう、今日も青空を背景に富士山がくっきりとそびえている。富士スピードウェイは、疑いもなく世界で最も美しいサーキットなのだ。

2014年に開催された世界耐久選手権(WEC)第5戦、富士6時間耐久レースの様子。折り鶴をイメージしたというメインスタンドの屋根など、新生・富士スピードウェイには、いたるところに日本をモチーフにしたデザインが盛り込まれている。

(文=熊倉重春)

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[ガズ―編集部]