ジム・クラーク――シャイなF1ヒーロー (1963年)

よくわかる自動車歴史館 第114話

F1黎明期の立役者はアルゼンチン人

2016年のF1ドライバーズタイトルは、メルセデスのチームメイト同士による対決となり、最終戦のアブダビGPまでもつれ込んだ。このレースではルイス・ハミルトンが優勝したもののポイントを逆転することはかなわず、しぶとく2位に入ったニコ・ロズベルグの初タイトルが決まった。ニコの父ケケ・ロズベルグも1982年にタイトルを獲得しており、親子2代のチャンピオンとなった。これは初めてではなく、1962年、1968年優勝のグラハム・ヒル、1996年優勝のデイモン・ヒル親子の例がある。

1982年のF1王者、ケケ・ロズベルグと彼のウィリアムズFW08。同年のF1は実力者が並び立つ上にコースの内外でトラブルが起きる異様なシーズンとなり、波乱の中で堅実にポイントを稼いだケケがタイトルに輝いた。

親子チャンピオンを2組も生み出すほど、F1は長い歴史を重ねてきた。1950年にスタートし、これまでに33人のドライバーがワールドタイトルを獲得している。黎明(れいめい)期のヒーローは、ファン・マヌエル・ファンジオだった。イタリア移民の血を引くアルゼンチン人で、国内の山岳レースや超長距離レースで活躍していた。第2次大戦後フランスに渡り、1949年のグランプリレースではマセラティで好成績を残す。

F1黎明期の伝説的レーシングドライバーであるファン・マヌエル・ファンジオ。1954年から1957年までの4連覇を含め、5度にわたりドライバーズタイトルに輝いた。

翌年始まったF1ではアルファ・ロメオのドライバーとなり、最強マシンのティーポ158で速さを見せる。レギュレーションでは自然吸気エンジンが4.5リッター以下、過給器付きエンジンが1.5リッター以下となっており、アルファ・ロメオはスーパーチャージャー付き1.5リッターエンジンを搭載していた。チームにはファンジオのほかにジュゼッペ・ファリーナ、ルイジ・ファジオーリがいて3Fと呼ばれ、他を寄せ付けぬ走りでトップ争いを展開する。ファンジオは3勝したものの、初代チャンピオンの座はファリーナのものになった。

1951年はフェラーリが躍進し、イギリスGPでアルファ・ロメオに勝利したエンツォ・フェラーリは「私は母を殺してしまった」という有名なセリフを残している。タイトル争いはアルファ・ロメオのファンジオとフェラーリのアルベルト・アスカリの対決になり、ファンジオが勝利する。彼は1954年からマセラティ、メルセデス、フェラーリを渡り歩いて4連覇を果たし、1958年に引退する。47歳になっていた。

1957年のドイツGPにて、ニュルブルクリンクサーキットを走るファンジオとマセラティ250F。ファンジオ最後の年間タイトル獲得は、F1創立以前に在籍していた“古巣”マセラティでのこととなった。

コーリン・チャップマンとの運命的な出会い

ファンジオと同じ時代に、イギリスの英雄だったのがスターリング・モスだ。1955年にはメルセデスでファンジオのチームメイトになっている。実力は折り紙付きで、何度もタイトル争いに絡んだが一度もチャンピオンにはなれず、無冠の帝王と呼ばれた。

1955年のイギリスGPにおいて、メルセデス・ベンツW196Rをドライブするスターリング・モス。

スコットランドの田舎町に、そんなモスの活躍を憧れの目で見つめる少年がいた。ジム・クラークである。彼は9歳で父のオースチン・セブンを運転し、クルマとレースへの関心を深めていった。地元のローカルなレースやラリーに出場するようになったのも自然な流れだ。それでも両親は彼がモータースポーツにのめり込むことに反対し、農家の跡取りとして家業に専念することを望んだ。姉は4人いるが、彼がクラーク家唯一の男子だったからだ。しかし、仲間内で飛び抜けた才能を示していたクラークには、いやがおうでも注目が集まっていった。1959年12月26日、彼はブランズハッチで行われたロータスのテストに参加することになる。

1960年代のF1で活躍した英国人ドライバーのジム・クラーク。他の追随を許さないドライビングスキルの高さから、F1史上最高のドライバーと称されることも多い。写真は1966年のインディアナポリス500でのもの。

クラークにとっては初めてのコースで、シングルシーターのマシンに乗った経験もなかった。最初のコーナーでコースアウトしたものの、慣れるに従ってペースを上げていく。ついにはワークスドライバーのグラハム・ヒルに迫る好タイムを記録し、走りを見ていたロータスの総帥コーリン・チャップマンを驚かせた。運命的な出会いである。クラークはチャップマンにレース人生を預けることになり、ヒルとは良きライバル関係を築いていった。

ロータスは1960年のオランダGPに、初のミドシップマシンである18を3台エントリーした。このGPでは、ジョン・サーティーズが同日行われた二輪のレースに出ることになり、リザーブだったクラークが空いたシートに座ることとなった。結果はギアボックスが壊れてのリタイアだったが、一時は5番手を走るなどしてポテンシャルを示した彼は、次のベルギーGPでも走ることになった。

ロータスの監督、コーリン・チャップマン(写真向かって右)とジム・クラーク(同左)。2人は最後まで良好な関係を保ち続けた。

スパ・フランコルシャンは波乱のレースとなった。予選ではプライベートチームから参戦したスターリング・モスの乗るロータス18のサスペンションが壊れて大事故を起こす。彼は負傷して決勝には出られず、次戦から欠場することになった。決勝ではクーパーのクリス・ブリストウがバリアーに激突して死亡する。そのわずか5周後にはロータスのアラン・ステーシーがコントロールを失ってクラッシュした。顔面に鳥が衝突したのが原因である。マシンは炎上し、この日2人目の犠牲者となった。

クラークは5位に入って初の得点を獲得したが、手放しで喜ぶことはできなかった。負傷者と死者が続出し、F1史上に残る最悪のレースのひとつになってしまったのだ。フィニッシュラインを越えることのできたマシンは6台にすぎなかった。

ファンジオの記録を超えた直後の死

1961年シーズンは、復活したスターリング・モスが2勝を挙げる。健在ぶりを示したが、本人は時代が移り変わりつつあることを自覚していた。当時モスは「唯一恐れているのは、ジム・クラークだ」と発言している。クラークはF1の実績は乏しかったが、チャンピオンシップのかからないレースでは何度もモスを破っていた。スローイン・ファーストアウトがコーナリングの基本とされている中で、彼だけはファーストイン・ファーストアウトの走法を身につけていたといわれる。それでも、1961年はフェラーリがシーズンを席巻。1962年はBRMのグラハム・ヒルに一歩及ばず、タイトルには手が届かなかった。

ジム・クラークのライバルとして、主に1960年代に活躍したグラハム・ヒル。1962年にBRMで、1968年にロータスでF1のドライバーズタイトルを獲得している。

クラークが初めてF1のドライバーズタイトルを手にしたのは1963年である。27歳での戴冠は当時の最年少記録だった。10戦中7勝し、圧倒的な力を見せつけた。彼は1965年のタイトルも獲得し、2度チャンピオンになっている。この年はインディ500でも優勝し、アメリカにもその名声は鳴り響いた。それでも、F1史上最高のドライバーともされる実力からは物足りない成績かもしれない。1962年と1964年にもチャンスはあったが、マシンのトラブルで惜しくもタイトルを逃している。1967年には年間4勝を挙げたが、2勝にすぎなかったデニス・ハルムに得点で及ばなかった。

実力は折り紙付きで人気も高かったクラークだが、サーキットの外では常に温厚で礼儀正しい英国紳士だった。極端にシャイな性格で、爪をかむ癖があり、パーティーでは会場の片隅でひとりジュースを飲んでいたという。自ら前に出ることをしない彼の能力を開花させたのは、コーリン・チャップマンだった。ふたりは兄弟のように仲がよく、レース期間中はいつも一緒にホテルのツインルームに泊まっていた。彼らは四六時中レースについて語り合い、スピードを追求していった。

1965年のF1において、ジム・クラークはインディ500のために欠場したモナコGPを除き開幕戦から6連勝を達成。圧倒的な強さでタイトルを獲得した。さらにインディ500でもポールポジションから独走で優勝している。

1968年シーズンのロータスは、第1戦の南アフリカGPでワンツーフィニッシュという最上の成績でスタートした。1位はクラーク、2位は前年にロータスに戻り、チームメイトとなっていたグラハム・ヒルである。名機49とコスワースDFVエンジンの組み合わせは最強と目され、ロータスの優位性は明らかだった。クラークの勝利数は通算25となり、ファンジオの記録を超えた。しかし、第2戦の前にホッケンハイムで行われたF2のレースに参加したクラークは、高速コーナーでクラッシュして即死する。32歳のあまりに若い死だった。

F1は転換期を迎えていた。コスワースDFVが汎用(はんよう)エンジンとして普及し、小規模なチームが参戦できる環境が整った。スポンサー契約が解禁され、ビッグマネーが流れ込む。F1の商業的成功の基盤が築かれていった。この年はヒルがドライバーズタイトルを手にし、コンストラクターズタイトルもロータスのものとなった。時代はさらに先に進む。ロータスではヨッヘン・リントが力をつけ、ヒルを脅かすようになる。ケン・ティレルのチームではジャッキー・スチュワートが速さを見せつけるようになっていた。彼もスコットランド人で、クラークの持っていた“フライング・スコット”の名を継ぐことになる。

1967年のインディ500にて談笑するジャッキー・スチュワート(写真向かって左)とジム・クラーク(同右)。

スチュワートは1969年、1971年にチャンピオンになった。1973年には5勝を挙げて3度目のタイトルを決めていたが、通算100戦目となる最終戦アメリカGPでは決勝を走らず、F1から引退した。予選でチームメイトのフランソワ・セベールが事故死したことに衝撃を受けたのだ。同郷の先輩クラークの死を経験し、1970年にはリントがイタリアGPで事故死するのを目の当たりにした。スチュワートは現役を退いてから新たな使命を自らに課した。危険なレースを根絶するための活動である。多くの偉大なドライバーの死を乗り越え、現在もF1をより安全なレースにする努力が続けられている。

1973年のモナコGPでランデブー走行を見せるティレルのジャッキー・スチュワート(手前)とフランソワ・セベール(奥)。セベールは同年の最終戦アメリカGPで事故死。スチュワートは引退後、F1の安全性向上に尽力した。

関連トピックス

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アルファ・ロメオ158

第2次世界大戦でイタリアは焦土と化したが、モータースポーツでは敗戦国とは思えぬ戦闘力を示した。戦争開始直前に開発されたティーポ158が、GPレースで無敵の快進撃を続けたのだ。

開発したのはヴィットリオ・ヤーノのまな弟子、ジョアッキーノ・コロンボである。158とは排気量1.5リッターの8気筒エンジンという意味で、アルフェッタの愛称で呼ばれた。

1950年にF1世界選手権が始まっても無類の強さを発揮し、当時F1に組み込まれていたインディ500を除く全戦で勝利する。そのうち4戦はワンツーフィニッシュという圧勝だった。

翌年は改良型の159を投入した。初戦でファンジオが勝利する好調なスタートだったが、イギリスGPで初の敗戦を喫する。勝ったのは、アルファ・ロメオから離れたエンツォの率いるフェラーリだった。

アルファ・ロメオ158と、初代F1チャンピオンとなったジュゼッペ・ファリーナ。1950年のシルバーストーンにて。

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ロータス49

1966年からF1のエンジン規定は1.5リッターから3リッターに変わり、各チームはエンジンの調達に追われた。準備の間に合わなかったロータスは非力な2リッターエンジンで戦わざるを得なかった。

巻き返しのため、ロータスはフォードと組んでコスワースとともに新しいエンジンを開発する。このプロジェクトで生まれたのが、後に通算154勝を挙げることになるDFVだった。

並行して開発されたのがバスタブ式モノコックを持つ49である。43で試みられた、エンジンを強度部材として利用する設計が受け継がれた最新鋭の設計だった。

1967年のオランダGPから実戦投入され、すべてのレースでポールポジションを得るポテンシャルの高さを見せつけた。翌年からは赤・白・ゴールドのゴールドリーフカラーをまとい、F1商業化という新時代の象徴となった。

1967年のベルギーGPにて、ジム・クラークがドライブするロータス49。

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ニコ・ロズベルグ

ケケ・ロズベルグの息子という恵まれたDNAを持つニコは、父のサポートを受けて幼い頃からモータースポーツに親しんだ。10歳でカートを始め、ジュニアフォーミュラ、F3と順調にステップアップしていく。

F1デビューは2006年。名門ウィリアムズから参戦し、開幕戦で7位に入る活躍を見せた。2010年にメルセデスに移籍し、2012年に中国GPで初優勝を果たす。

2013年にマクラーレンから移籍してきたルイス・ハミルトンがチームメイトとなる。彼は同い年でカート時代からの仲間だったが、接触事故を起こすなどのトラブルを経て関係が悪化する。

2014年、2015年はハミルトンが連覇し、ニコは2位に甘んじた。2016年も接戦となったが、最終戦でニコが初のタイトルを獲得する。長年の夢をかなえたニコは、FIAの表彰式が行われた直後に引退を表明した。

2016年のドライバーズタイトルを獲得したニコ・ロズベルグ。僚友ルイス・ハミルトンとのチャンピオン争いは最終戦のアブダビGPまでもつれ込んだ。

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[ガズー編集部]