
60年代から長きに渡ってトヨタモータースポーツと共に歩み、その活動を支え続ける「TOYOTA TEAM TOM’S」代表の舘信秀氏は、 世界最大の草レースに挑戦する「Team GAZOO」をバックアップする強力なサポーターの一人。 この春、還暦を迎えたレースの鉄人が、自らのレース人生を振り返りながら、あふれる想いを語る。 ニュルブルクリンクに挑むメンバーへ、クルマを愛する全ての人へ、届けこの情熱のメッセージ!
クルマ、嫌いだったんだよ、小さい時。
なぜ嫌いだったかというと、酔ったのよ。
小学校も中学校も旅行や遠足にバスで行くってだけで気持ち悪くなる(笑)。そのくらいクルマに弱かった。
免許を取ったのは16歳。軽免許ね。
その時に鈴鹿サーキットの「第2回日本グランプリ」(1964年)を観に行ったんですよ。
三重県鈴鹿市生まれだから実家があった。
三村健治(※70年代にF1へ挑戦したマキF1のチーム代表)だとか、同じ高校のグループがクルマ好きだった。
俺はもうバスケットボール部で体育会系の硬派なお兄ちゃんだった。
みんな学生だから金がなくてね、「お前の実家鈴鹿だろ、レース観に行くから旅館がわりに泊めてくれよ」と。
「ああいいよ、じゃあ俺も一緒に行くよ」。
それで観たのが「第2回日本グランプリ」。 非常にインパクトがあって、やっぱり五感で感じる音の凄さとか・・・。 当時は特にオイルが植物性のオイルで、匂いがするじゃない。耳と鼻と目。なんかこう五感にガーンときた。 「俺にはコレしかねえな」ということで、クルマに弱いっていうのは忘れて(笑)、 モータースポーツの世界に入ったのが元々のいきさつ。 高校から大学に入る時期だったと思います。 自動車部には入らずに、プライベートレーシングチーム『ロッド・ベンダーズ』を作った。 ロッドが折れるくらいエンジンを回す。その当時、10代でレースに出る人はあまりいなかったね。
石油危機、1973年だね。
トヨタに限らず他の自動車メーカーもレースから撤退、縮小するわけだけど、
俺はやっぱりどうしてもレースが続けたい、続けるにはどうしたらいいだろうかと考えて、
自分でチームを作っちゃうのが一番手っ取り早いかなって・・・実はもうそれしか道が無かった。
それと、レーサーとして向いているかどうかっていうのは自分が一番良く分かっていて、
本当にレーサーとしてまだまだ可能性があるのならば、
星野(一義)だとか長谷見(昌弘)ちゃんと一緒のプロの道を行ったと思うんだけど、
自分自身がね、やっぱりレーサーの世界って厳しくてね。
一度ショックだったことがあった・・・、 俺は日産だとか他のメーカーが敵だと思っていた。 そしたら他のドライバーが「お前はバカだ」と。 「俺の敵は、おめえだよ!」って言う。 中学、高校とバスケットボールをやっていて、本当にスポーツマンだったのよ。 チームプレーじゃない、バスケットって。だから自分の技術を磨くのも大事だけど、 そこにはチームワークがあるものだとね。 「甘いな、俺は向かねえや」ってその時に思った。 これは本当の話。いつも12月に翌年の契約がかかった大事なオーディションがあるわけだよ。 そこで隣のヤツより遅かったら給料は下げられる、下手すりゃ解雇。そこで頑張んなきゃいけない。 個人プレーというかね、厳しい世界だよ。

【プロフィール】
舘 信秀(たち のぶひで)
株式会社トムス代表取締役会長
TOYOTA TEAM TOM’S 代表
1947年3月23日生まれ/三重県出身
1965年にトヨタ・パブリカを駆りレースデビュー。
1971年にはトヨタ専属契約ドライバーへ。
1974年、(株)トムスを設立し代表取締役社長に就任。
トヨタ車用のカスタマイズパーツを企画製作販売しながら
チームを運営する一方、レーサーとして国内外で活躍。
1982年に現役レーサーを引退するも、チーム代表、
監督として“夢”を追う情熱は加速する。
還暦を迎えた現在も、長きに渡りトヨタモータースポーツの
要として活動するTOYOTA TEAM TOM’S代表として采配をふるう。
2006年はレクサスSC430で王座を奪回。
誰もが認める日本レースシーンの雄。