<自動車人物伝>神谷正太郎…トヨタ自動車”販売の神様”の戦略

よくわかる 自動車歴史館 第22話

日本GM からヘッドハント

“1にユーザー、2にディーラー、3にメーカーの利益を考えよ”
1935年に神谷正太郎が豊田自動織機製作所に入社した時、販売理念として掲げた言葉である。自動車を販売することでまず利益を受けるのは実際に自動車に乗るユーザーであり、それによってディーラーも収益をあげる。信頼関係が確立された後に、メーカーにも余沢がもたらされる。断じて逆ではない。メーカー主導で商品を供給するのが常識だった時代で、顧客本位という考え方は先進的だった。この思想は、今に至るもトヨタに受け継がれている。

この時、豊田喜一郎はG1型トラックの試作品を完成させたところだった。自動車製造事業法の許可会社に指定されるために製品の量産化を急いでいて、なんとか目処がつきそうになっていたのだ。しかし、まったく準備ができていない領域があった。作ることばかりを考え、売る算段にまでは手が回らなかったのだ。技術の面では天才ぶりを発揮した喜一郎だったが、販売面に精通しているとはいえなかった。
「自動車は、作るより売るのがむずかしい」 これが彼の口癖であったといわれている。

喜一郎は豊田紡織の取締役で、自動車事業に協力的だった岡本藤次郎の紹介で神谷に会い、初対面にもかかわらず入社を要請している。しかも、まだ37歳の若さだった彼に販売の全権を任せたのだ。神谷は日本GMの副支配人という要職にあった。日本人としては最高の地位にあり、高給で処遇されていた。それでも、日本に自動車工業を根づかせたいという喜一郎の熱意に接し、強く共感したのだ。これで、研究開発は喜一郎、販売は神谷という強力な体制が整えられた。

割賦方式の導入で販売を促進

神谷は1898年に愛知県知多郡で生まれ、名古屋市立商業学校を卒業後、三井物産に入社した。半年後、シアトル出張所への転勤を命じられる。夜学に通って英語を学び、語学力には自信があった。若くして海外勤務の機会を得たのだ。ここで知遇を得たのが、東洋綿花の岡本藤次郎である。彼は商業学校の先輩であることがわかり、慣れない異国での生活に便宜を図ってくれた。

翌年、神谷にロンドン支店への転勤の命が下った。ここでは鉄鋼などの金属を扱うことになり、貿易の実務を学んでいく。1925年に彼は三井物産を辞め、自ら神谷商事を設立した。鉄鋼や真ちゅうなどを扱う商社である。一度は成功を収めるが不況の渦に巻き込まれて業績は低迷し、2年後に廃業を余儀なくされた。大きな挫折ではあったが、ロンドンで得たものもある。鉄鋼を扱うことから自動車会社との関係ができ、最新の知識を吸収していたのだ。

日本に帰って、GMに就職したのは自然な流れだった。1925年にフォードが横浜に工場を建設してT型のノックダウン生産を開始し、2年後にGMが大阪でシボレーの組み立てを始めた。日本車の生産はまだ微々たるもので、市場はアメリカ車の独占状態だった。履歴書を送るとフォードとGMの両方から採用通知が届いたが、神谷は即刻勤務するよう指示のあったGMを選んだ。

語学に堪能で商社での実務経験がある神谷は、またたく間に昇進していった。入社2年後には販売広告部長になっている。しかし、次第に彼の心の中には満たされない思いが募っていった。いくら業績を伸ばしても、売っているのは外国車である。本当は、日本のクルマを売りたい。販売店に対するGMの態度にも不満があった。特約店には販売数のノルマを課し、しかも現金での支払いを求める。成績が悪ければ、すぐに契約を解除する。合理的ではあるが、まったく情の通わない関係だった。

喜一郎の説得を受けて入社を快諾すると、GMの特約店である日の出モータース(現、愛知トヨタ自動車)の支配人・山口 昇に声をかけた。G1型トラックを売ってくれるよう求めたのだ。山口はGMとの契約を破棄し、豊田の車を扱う販売店第1号となった。これまで神谷がGM本社と販売店との衝突回避に力を尽くすことで得てきた信頼が、彼の心を動かしたのだ。日の出モータースの店頭に掲げられたネオンは「GM」から「国産トヨダ」に掛け替えられ、全国の多くの代理店が続々と戦列に加わった。

神谷が取り組んだのは、割賦販売の推進である。GMでの経験から、自動車の販売を伸ばすためには製品を前渡しして分割で支払いを行う方式が有効だと知っていたからだ。1936年、トヨタ金融株式会社が設立され、資金力に乏しい業者がトラックを購入する道が開かれた。販売は順調に伸びていったが、神谷が手腕を発揮する場所は徐々に狭められていった。日本は戦時体制に入り、自動車の生産・販売は軍事目的が優先されるようになった。1940年には自動車は完全に軍の統制下に置かれ、その後、神谷は配給会社に出向することになる。

工販分離でトヨタ自販社長に

戦争が終わると、神谷はすぐに行動を開始した。配給制のもとではクルマを作れば自動的に使用者に渡されていったが、これからはメーカー同士の競争が始まる。まずは販売店のネットワークを再建しなくてはならない。占領軍の統治方針は知る由もなかったが、必ず自動車の生産が許可されると神谷は判断していた。戦時中に交流していた全国の配給会社に声をかけ、トヨタの販売網に加わるように説得した。日本自動車配給株式会社が解散すると、1946年にトヨタ自動車販売店組合が結成された。その中には、戦前は日産系だった有力ディーラーも加わっていた。機を逃さなかった神谷の奮闘が、後にトヨタが誇る販売力を築く礎となったのである。

しかし、1949年にトヨタは危機に陥る。ドッジライン不況が直撃し、2億円の現金がなければ倒産するという瀬戸際に追い込まれたのだ。日銀が主導した協調融資で破綻は免れたが、トヨタには再建に向けて厳しい条件がつきつけられた。その一つが、いわゆる“工販分離”である。製造部門と販売部門を分離し、販売会社が売れる数だけの自動車を作るようにする。完成車の引き渡しと引き換えに販売会社は製造会社に手形を渡し、銀行は割賦販売の資金を融資する。このシステムによって、資金が滞ることなくスムーズに製品を流通させることができるというわけだ。

協調融資団からの要請に応えた形になったが、これは神谷が戦前から抱いていた構想でもあった。割賦販売によって自動車の購入を容易にし、販売会社が適切なマーケティングを行って人々の求めるモデルを製造会社とともに作っていく。神谷は新しく設立されたトヨタ自動車販売株式会社の社長に就任した。“1にユーザー、2にディーラー、3にメーカーの利益を考えよ”という販売理念を実現するために、理想的な布陣が整ったのだ。

1957年、トヨタは2台のクラウンをアメリカに運んだ。輸出用のサンプルとして持ち込んだのである。見本市に展示されると“ベビー・キャデラック”と評判を呼んだが、実際に走らせてみると評価はガタ落ちした。日本では性能が評価されていたが、交通事情があまりにも異なっていた。高速道路ではパワーと安定性の不足を露呈してしまった。明らかに輸出は時期尚早だったが、神谷がこの時期にサンプル輸出を行ったのには理由があった。当時ヨーロッパのメーカーがアメリカに進出しつつあり、小型車のマーケットが形成されつつあった。将来の本格的な輸出のために、基盤を固めておかなければならないと考えたのだ。

彼が見込んだとおりアメリカの小型車市場は拡大し、トヨタにとっても大きな輸出先となった。神谷は、常に先を読んで大胆な戦略を立てる。1954年、神谷は立川の日本自動車学校を買収し、規模を広げて運転教育と整備教育を始めた。個人が所有する自動車は7万6000台ほどしかなかったが、モータリゼーションの到来に備えて先手を打ったのだ。中古車の流通に取り組んだのも早く、アクセサリー販売も他社に先駆けていた。神谷が“販売の神様”と呼ばれたのは、単に多くの自動車を売ったからではない。ユーザーの要求を先取りし、常に需要を喚起する方策をとり続けたからである。

1982年、トヨタ自工とトヨタ自販は対等合併し、トヨタ自動車株式会社となった。工販分離は役割を終え、生産・販売を一体化することで新たなステージを迎えることができるという判断である。神谷はすでに1975年にトヨタ自販の社長を退いていた。
「お客様第一主義をモットーに、販売店、仕入れ先、トヨタ自動車が一体となって魅力ある商品を提供する」
工販合併後に発表された経営方針の冒頭で、この一文が示された。神谷の思想は、すでにトヨタの思想そのものとなっていたのだ。

[ 提供元:日本経済新聞デジタルメディア ]

※本資料は、様々な書籍、資料を元に編集しております。
トヨタ自動車が公式に発表している内容については、トヨタ75年史をご参照ください。

豊田喜一郎をモデルにしたドラマ「LEADERS(リーダーズ)」が、TBSにて佐藤浩市主演で3月22日(土)・23日(日)午後9時より、2夜連続で放映されます。是非、こちらもご覧ください。詳しくはこちら

(参考書籍、資料)
『トヨタ経営の源流―創業者・喜一郎の人と事業』佐藤義信、『豊田喜一郎―夜明けへの挑戦』木本正次、『トヨタを創った男 豊田喜一郎』野口均、『豊田佐吉とトヨタ源流の男たち』小栗照夫、『裸の神谷正太郎―先見と挑戦のトヨタ戦略』鈴木敏男・関口正弘、『賣る―小説神谷正太郎』松山善三、『石田退三 危機の決断 1950トヨタクライシス』大和田怜、『石田退三語録』石田退三・池田政次郎、『闘志乃王冠―石田退三伝』岡戸武平、『トヨタ生産方式の創始者 大野耐一の記録』熊澤光正、『トヨタ生産方式―脱規模の経営をめざして』大野耐一、『トヨタ式「改善」の進め方―最強の現場をつくり上げる!』若松義人、『決断 - 私の履歴書』豊田英二、『豊田英二語録』豊田英二研究会、『小説 日銀管理』本所次郎、『ザ・ハウス・オブ・トヨタ 自動車王 豊田一族の150年』佐藤正明、『トヨタ自動車の研究――その足跡をたどる――』岡崎宏司・熊野学・桂木洋二・畔柳俊雄・遠藤徹、『苦難の歴史 国産車づくりへの挑戦』桂木洋二、『国産乗用車60年の軌跡』松下宏・桂木洋二、ウェブサイト「トヨタ自動車 75年史 もっといいクルマをつくろうよ」トヨタ自動車

[ガズー編集部]

MORIZO on the Road