軍用車から乗用車へ(1941年)

よくわかる 自動車歴史館 第30話

わずか1カ月半で作られた試作車

キューベルワーゲン
1940年にウィリス社が製作した試作車
1943年製ウィリスMB

ジープという名前を四輪駆動車を指す普通名詞だと思っている人は意外に多い。パジェロを三菱のジープ、メルセデス・ベンツのゲレンデヴァーゲンをベンツのジープなどと呼ぶ人が結構いる。味の素がすべてのうま味調味料を意味するのではないように、ジープはクルマの名前だ。1941年にアメリカ陸軍の要請で生産が始まった軍用車であり、1/4-TON 4x4 TRUCK(WILLYS-OVERLAND MODEL MB and FORD MODEL GPW)が軍の命名規則に基づく“制式名称”である。

前年の1940年7月、アメリカ陸軍は小型偵察車開発委員会を設立し、自動車メーカー135社に開発要請書と入札規則書を送付した。要望の中身は、車両重量585kg、ホイールベース2030mm、トレッド1190mmをそれぞれ下回るサイズで、重機関銃を搭載することが可能な四輪駆動車の開発だった。ヨーロッパ戦線ではドイツ軍の機械化部隊がキューベルワーゲンを使った電撃侵攻作戦を成功させており、対抗し得る車両を持つことが急務となっていた。

要請に応じたのは、わずか3社だった。アメリカン・バンタム、ウィリス・オーバーランド、そしてフォードである。要求性能があまりにも厳しく、実際にプロトタイプを提供したのはアメリカン・バンタムだけである。わずか1カ月半で試作車を仕上げるという早ワザだった。ただし、車両重量はさすがに基準をクリアすることができず、1トン近い重さになっていた。ひと月にわたって実戦的なテストが繰り返され、オフロード走破の性能と耐久性を認められる。その結果を見て、ウィリスとフォードにも同様な作りのプロトタイプを作るように要請し、各モデルの長所を生かした統一規格車が生産されることになった。

原型を製作したのはアメリカン・バンタムだったが、本格的な大量生産を行うには規模が小さく、1941年7月から量産を始めたのはウィリスとフォードだった。ウィリスMBとフォードGPWである。名前は違っても仕様は同一で、同じ部品を使って修理することができた。第2次大戦が終了するまでに、ウィリスMBが約36万台、フォードGPWも27万台近くが生産されている。

進駐軍とともにやってきたジープ

三菱ジープ

アメリカ陸軍参謀総長のジョージ・マーシャル元帥は、「われわれに勝利のパワーを与えてくれた武器、資材類はたくさんあるが、何といってもありがたかったのは、JEEPとDUKWの存在だった」と話している。戦闘機や戦車を差し置いてまで感謝の意を表したのがジープだったのである。

兵士からも将軍からも歓迎されたのは、まず何よりもその頑丈さと悪路走破能力だった。はしご型フレームに前後リーフリジッドのサスペンションは、オフロードで無類の強さを発揮する。フレーム自体が変形してショックを吸収し、接地性に優れて耐久性が高い。乗り心地は悪いが、戦地では快適性の優先度が低いのは当然だ。2.2リッター直列4気筒のサイドバルブエンジンは最高出力こそ54馬力と控えめだが、2000回転で最大トルク14.5kgmを発生する。砂漠から積雪地帯までカバーし、最大31度の斜面を登る能力がある。ジープは頼りになる相棒だったのだ。

ジープという名称はウィリス・オーバーランドによって商標登録されるが、その語源についてははっきりしていない。General Purpose(多目的、万能)の略称GPからきたという話もあれば、『ポパイ』に登場した“ユージン・ザ・ジープ”という怪物からとられたという説もある。1930年代後半からアメリカ陸軍では軍用トラック全般をジープと呼んでいたともいわれていて、定説はないのだ。ウィリス・オーバーランドは戦後カイザーに買収され、何度かの転変を経て現在はクライスラーが商標を所持している。

戦争が終わり、日本にもジープがやってきた。40万人以上のアメリカ兵が進駐軍として上陸し、移動手段としてジープを使ったのだ。数千台のジープが全国を走りまわっていたと考えられる。ビジュアルイメージとして、ジープは進駐軍そのものだったのだ。特に子供たちには人気で、当時小学生だった徳大寺有恒氏も最初のあこがれのクルマはジープだったと語っている。

注目したのはもちろん子供たちだけではない。1950年に設置された警察予備隊は、自動車メーカーに小型トラックの製造を要請する。この時入札に応じたのはトヨタ、日産、三菱で、ジープのライセンス生産が決まっていた三菱が選定された。その後改組して発足した自衛隊にもジープを納入し、1998年まで生産が続けられた。

高い走破性を生かして高級SUVに

ウィリスM38
ハマーH1
ジープ・ラングラー
ジープ・グランドチェロキー

ウィリスMBとフォードGPWは、朝鮮戦争にも送り込まれている。同時に後継車となるウィリスM38も配備されていて、次第に世代交代が進んでいった。ベトナム戦争では、ケネディジープと呼ばれたフォードM151が主力となった。モノコックボディーに四輪独立懸架のサスペンションを組み合わせたもので、初代モデルとはまったく異なる設計思想のもとに作られている。

さらなる高性能な軍用車を開発するため、1970年頃から大型で高速な偵察車の構想が持ち上がった。それがHigh Mobility Multipurpose Wheeled Vehicle(HMMWV)で、ハンヴィーと発音する。生産を担当したのは、商用車のメーカーだったAMゼネラルである。1985年に正式に採用され、1989年のパナマ侵攻で初めて実戦投入された。

このクルマのタフな性能に引かれたのがアーノルド・シュワルツェネッガーだった。彼は街乗り仕様のハンヴィーを製作するよう依頼し、それに応えて作られたのがハマーだった。1992年から市販されるようになり、巨大なサイズで高価であったにもかかわらず大人気となった。日本にも輸入され、一時は東京都心でもよく見かけることができたものである。その後小型化されたH2、H3といったモデルが作られたが、いずれも現在では生産されていない。極端に低い燃費性能は現代では受け入れがたいものだった。

一方、ジープは今も高いブランド性を持ったモデルであり続けている。軍用車として培われた高い走破能力は、SUVにとっても大切な要素となる。実際に悪路に足を踏み入れることは少ないが、ポテンシャルを秘めていることがステータスとなる。ラインナップは拡充されて、小型から大型までサイズがそろえられている。

頑丈さが優先された軍用車と違い、一般向けのSUVとなったモデルは快適性や豪華装備にも力が入る。最も正統な後継車といえるラングラーでも、運転席に座れば乗用車とさして変わらぬ感覚だ。グランドチェロキーに至ってはラグジュアリーな高級SUVで、ヨーロッパのメルセデス・ベンツやBMW、アウディなどのモデルに対抗する位置にある。その中でジープのアドバンテージになるのが、出自からくる性能への信頼と歴史の持つ重みだろう。

戦争では性能の差が生死を左右するので、軍用車の開発では技術が惜しみなくつぎ込まれる。それによって得られた果実が、平和な世の中では乗用車に魅力を加えることになるわけだ。ジープは第2次大戦が生み出したが、魅力的なSUVとなった現在のほうがクルマにとっても幸せであるはずだ。

1941年の出来事

topics 1

東京自動車工業が事業許可会社に

ヂーゼル自動車PA型

1935年に小型乗用車のA1型を試作していた豊田自動織機製作所は、急きょトラックの開発に乗り出した。商工省と陸軍省から、トラックとバスを製造するように要請されたのである。政府は自動車の製造を許可制にする方針を固めつつあり、指定されるためにはトラック製造の実績を作っておく必要があった。

1936年に自動車製造事業法が制定され、750cc以上の排気量を持つ自動車を年間3000台以上生産するのは、政府の許可を受けなければならないことになった。初の許可会社になったのは、豊田自動織機製作所と日産自動車の2社である。

1941年に3番目の許可会社になったのが、東京自動車工業である。1910年に東京瓦斯会社として設立された会社の機械部門が自動車事業に乗り出し、1919年にトラックの製造を始める。1937年に自動車工業と合併し、東京自動車工業となっていた。

許可されたのは、ディーゼル自動車の製造である。これを受けて社名をヂーゼル自動車工業に改称した。1942年に許可会社3社に政府が高級乗用車の試作を要請し、ヂーゼル自動車では4.4リッター直列6気筒エンジンを搭載したPA型を作っている。

1942年に分社して誕生したのが日野重工業で、後の日野自動車である。ヂーゼル自動車工業本体は戦後の1949年にいすゞ自動車となり、両社はノックダウン生産で乗用車を手がけていくことになる。

topics 2

自動車統制会設立

統制下のもとで納車、配給されたトヨタKC型トラック

日中戦争が激化する中、1938年に国家総動員法が制定される。国家が企業に対し需要を提供し、労働者の雇用や物資の調達についても国家が統制することが定められた。経済の戦時体制化が進められていったのである。1940年には大政翼賛会が設立され、軍部主導の体制が着々と固められつつあった。

自動車産業でも、物資動員計画のもとで部品や資材が配給制となっていった。1941年、自動車統制会が設立される。会の目的は、自動車の製造と販売に関し、政府の国策の立案、遂行に直接協力することにあった。自動車工業を能率的に運営して優秀な自動車を多量に安く生産するという触れ込みだったが、これによって民需はほとんど消滅し、軍部の要請のままに自動車を製造しなくてはならなくなった。

自動車統制会の重要な役割の一つに、自動車と部品の配給機構を整備することがある。翌1942年には商工省機械局長名義の通達があり、日本自動車配給会社が設立された。全部品メーカーの生産が統制され、日本自動車配給会社がすべて一元化して管理したのである。

各メーカーが持っていた販売網を統合し、各県にひとつずつ販売会社を置くようになった。メーカー独自の販売戦略は消滅させられ、軍部から割り当てられた数量を製造して納品するという方式がとられることになった。

topics 3

太平洋戦争ぼっ発

1937年から始まった日中戦争が泥沼化する中、日本では軍部が政治に大きな影響を与える体制が築き上げられていった。1940年に第2次近衛内閣は「皇国ヲ核心トシ日満支ノ強固ナル結合ヲ根幹トスル大東亜ノ新秩序ヲ建設スル」という「基本国策要綱」を閣議決定し、いわゆる大東亜共栄圏の確立を国家目標として掲げるようになった。

ヨーロッパではドイツがポーランドに侵攻し、第2次大戦がぼっ発していた。日本は日独伊三国同盟を結成し、アメリカとイギリスに対抗する道を選ぶ。日米交渉は続けられたが最終的に決裂し、1941年12月8日、日本は真珠湾を攻撃し、太平洋戦争が始まった。

1942年、ミッドウェー海戦での大敗により、日本は大きな損害を受ける。その後もガダルカナル島やレイテ、サイパンなどで敗退を繰り返し、制空権を失った日本は空襲で本土の都市を直接攻撃されるようになった。1945年8月には広島と長崎に原子爆弾を投下される。日本はポツダム宣言を受け入れ、無条件降伏した。

戦争の間、日本の自動車産業は軍需のトラックなどを製造するよりほかなく、乗用車の開発は完全にストップした。戦争が終わっても、長いブランクを埋めるには多くの時間を費やさなければならなかった。

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[ガズー編集部]

MORIZO on the Road