F1日本上陸 (1976年)

よくわかる自動車歴史館 第110話

日本からは遠かったF1誕生

F1が始まったのは1950年である。グランプリレースは1906年から行われていたが、各国が別個に開催しているだけだった。戦争の荒廃から立ち直り、FIA(国際自動車連盟)によって世界を転戦してチャンピオンを決める選手権シリーズが定められた。“F”とは「規格」を意味する「formula(フォーミュラ)」の頭文字で、F1とはすなわち最上位のカテゴリーを意味する。初年度はシルバーストーンのイギリスGPからモンツァのイタリアGPまで7戦が行われ、アルファ・ロメオのジュゼッペ・ファリーナが初代チャンピオンに輝いた。

1950年5月13日にシルバーストーンで開催されたイギリスGPにて、ジュゼッペ・ファリーナがドライブするアルファ・ロメオ158。

ヨーロッパではF1が熱狂的に迎えられたが、当時の日本ではほとんど話題になっていない。この年、朝鮮戦争が勃発(ぼっぱつ)して自動車メーカーは軍需用トラックの生産で活況を呈する。日本の自動車生産台数は6万7100台で、そのうち乗用車は1683台にすぎなかった。日本人にとって自動車は何よりも実用的な運搬手段であり、レースに関心を持つ余裕はなかった。

1962年に鈴鹿サーキットが完成し、翌年には第1回日本グランプリが開催される。日本初の本格的な四輪自動車レースだったが、参加者も観客も手探り状態だった。普段乗っている市販車をそのままサーキットに持ち込むドライバーがいたほどで、メーカーもレース部門が整備されていなかった。それでも、国際スポーツカーレースに参戦したロータスやフェラーリの走りが観客を魅了する。最新のスポーツカーを目の当たりにし、日本でもモータースポーツへの関心が高まっていった。

第1回日本グランプリにて、鈴鹿サーキットを走るフェラーリ250GT SWBとアストンマーティンDB4 GTザガート。

1964年にはホンダがF1に参戦。翌年のメキシコGPで初優勝を果たし、ようやく日本でもF1の名が知られるようになっていく。生沢 徹がイギリスF3で好成績を挙げ、F1へのステップアップが期待された。しかし、ホンダは1968年でF1活動を休止し、日本人F1ドライバー誕生の夢は遠のいてしまった。

1965年のF1メキシコGPで優勝したリッチー・ギンサーと、ホンダRA272。

日本グランプリはプロトタイプレーシングカーのレースとして続けられ、トヨタと日産の対決で盛り上がりを見せた。排ガス問題の影響で1970年の開催が中止になると、今度は富士グランチャンピオンレース(グラチャン)が人気となる。長谷見昌弘、星野一義、高原敬武らの高速バトルが観客を熱狂させた。

自動車大国となってF1開催の機運が高まる

日本のレース環境が独自の発展を遂げる中で、F1へのアプローチも始まっていた。1974年3月、イギリスで突如新チームによるF1参戦の発表イベントが行われる。白地に赤い日の丸を配したマシンは、マキF101と名付けられていた。日本のプライベートチームがコンストラクターとしてF1に挑戦するというのである。当時はコスワースDFVエンジンの全盛期で、800万円ほどで購入すればマシンを仕立ててレースに参加することができた。マキレーシングはイギリスGPからエントリーしたが、予選を突破できず本戦には出ていない。

1974年には日本のプライベートチーム、マキがF1に挑戦。独自のレーシングカー、F101を投入したが、予選突破はならなかった。

同じ年、高原敬武がシルバーストーンで行われたデイリー・エキスプレス・インターナショナル・トロフィーにマーチ741で参戦した。F1とF5000が混走するレースである。選手権はかかっていなかったが、高原は日本人初のF1ドライバーとなった。

自動車大国となりつつあった日本に、FIAが興味を示して開催を働きかけていた。1974年の11月に行われたグラチャン最終戦で、富士スピードウェイを初めてF1マシンが走った。エマーソン・フィッティパルディら5名のドライバーが来日し、マクラーレンやロータスなどのマシンで模擬レースを披露したのである。世界最高峰の走りは観客を魅了した。

富士スピードウェイがF1開催にふさわしいサーキットであることも確認され、一気に話が進む。1976年に日本初のF1が開催されることが決まった。この年、日本では輸出額で自動車が鉄鋼を抜いて第1位となる。自動車生産台数は784万台に達し、そのうち輸出されたのは371万台だった。自動車保有台数は3000万台を突破し、日本のモータリゼーションが加速していた。

富士スピードウェイの誕生は1966年のことで、1960年代後半には日本グランプリ、1970年代には富士グランチャンピオンシリーズと、すでに大きなイベントが開催されていた。

1976年のレースカレンダーには、すでにF2000選手権の最終戦が日本グランプリという名前で登録されていた。窮余の策として、F1選手権イン・ジャパンという名前が採用される。10月24日決勝で、1976年の第16戦としてF1カレンダーに富士スピードウェイの名が記された。

日本初開催のF1レースは最終戦となり、チャンピオン争いが持ち込まれることになった。このシーズンはフェラーリのニキ・ラウダが好調で、首位を独走していた。しかし、第10戦のドイツGPでクラッシュし、大やけどを負って生死の境をさまよう。ラウダが欠場している間に浮上してきたのはマクラーレンのジェームス・ハントである。ラウダは事故からわずか6週間後のイタリアGPで奇跡的な復帰を果たすが、ハントは第14戦、第15戦を連勝。ポイントを65点に伸ばし、68点のラウダと3点差で日本GPを迎えた。

フェラーリのレーシングドライバーであるニキ・ラウダ(写真右)。フェラーリ312T2を駆ってジェームス・ハントと優勝争いを繰り広げていたが、ドイツGPでの事故で重傷を負うこととなる。

初舞台で奮戦した日本人ドライバー

決勝前日から富士スピードウェイには雨が降り始め、朝になると本降りになった。コース上には水たまりができ、ウオームアップ走行ではスピンアウトするマシンが続出する。霧も発生してコンディションはさらに悪化し、予定の午後1時半になってもレースを始められない。ドライバーからは中止を求める声も上がったが、午後3時にスタートすることに決まった。

2番手からダッシュを決めたハントが第1コーナーを制し、後続を引き離しにかかる。マシンの後方には激しく水煙が上がり、先頭のハント以外は視界を奪われたままで走らなくてはならなくなった。2周目に思わぬ事態が発生する。ラウダがピットに入り、マシンから降りたのだ。レースを続けるのは危険だと判断し、彼はリタイアを決めた。皮肉なことにその後天候は回復し、路面は乾き始める。

雨の富士スピードウェイを走る、ジェームス・ハントのマクラーレンM23。

スピンやマシントラブルで脱落するドライバーが続出する中、最後まで走りきって優勝したのはポールポジションからクレバーな走りを見せたマリオ・アンドレッティだった。1位のまま周回を重ねていたハントは、タイヤの摩耗で終盤にピットインを強いられて順位を落とす。それでも3位入賞を果たした彼は、1ポイント差でワールドチャンピオンに輝いた。

華やかな戦いを繰り広げるスター選手たちの陰で、日本人ドライバーが苦闘していた。エントリーしたのは、高原敬武、長谷見昌弘、星野一義、桑島正美の4人。世界レベルでは無名な彼らが軽く見られたのは仕方がない。ティレルのジョディ・シェクターは、日本人に対して「抜かれたい方向を手で示してくれ。安全に抜いてやるから」と言い放った。

予選初日に外国勢に衝撃を与えたのが長谷見の走りだった。コジマKE007で4番手のタイムをたたき出し、アンドレッティの前に出たのだ。富士スペシャルとして熟成させたマシンで、長谷見はこの順位には満足していない。ポールポジションを狙う彼は、2日目も攻め続ける。しかし、最終コーナーを走行中に左フロントサスペンションが破損し、250km/h以上のスピードでクラッシュ。モノコックにもダメージを負ってしまったが、コジマのメカニックたちは2日間不眠不休でマシンを作り直し、決勝に間に合わせた。

長谷見昌弘がドライブするコジマKE007。日本のレーシングコンストラクターが製作した、国産のF1マシンである。

桑島は資金不足で出走できなかったが、長谷見10位、星野21位、高原24位のポジションからレースが始まった。KE007は修復されたとはいってもセッティングの時間がなく、直線でも真っすぐ走れない状態だった。オーバーステアに苦しみながらも長谷見は完走し、メカニックの奮闘に応えた。

序盤に速さを見せつけたのは星野である。勝手知ったる富士で鬼神の走りを見せ、10周目のヘアピンでシェクターをアウトからぶち抜いた。最新型の6輪ティレルのシェクターに対し、星野が乗るのは型落ちのティレルにスポーツカーノーズを取り付けた急造マシン。戦闘力不足を意地で補い、一時は3位を走行して喝采を浴びた。タイヤ交換を繰り返したあげく用意したホイールを使い切ってリタイアとなったが、世界に肩を並べる腕を持つことを証明した。

星野一義はティレル007でレースに挑戦。007は同年の第4戦までティレルがF1に投入していたレーシングカーで、シェクターの乗るP34より世代の古いモデルだった。

翌年も富士でグランプリが開催されるが、事故で死傷者を出したこともあって日本でのF1開催は中断される。鈴鹿サーキットでF1が復活するのはバブル景気の1987年だ。日本人ドライバーの登場もあってF1人気は沸騰する。上陸から10年を経て、日本はF1に欠かせない国と認められるようになった。

関連トピックス

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マキレーシング

エバカーズ、マナなどのレーシングカーの設計に関わった三村健治を中心として、1973年にマキエンジニアリングが発足する。プライベートチームとしてF1フル参戦を目指すが、メインスポンサーが不祥事を起こしたことによって資金不足に陥る。

1974年のシーズンは、F101で2戦に出場した。イギリスGPではトップから4秒落ちのタイムで予選落ちし、西ドイツGPでは大クラッシュでドライバーが重傷を負う結果となった。

翌年はシチズンを新スポンサーに迎えてマキレーシングと改称し、5戦にエントリー。日本人ドライバーの鮒子田寛も加わるが、やはり予選突破はならなかった。

1976年は富士スピードウェイのレースだけに絞り込み、新設計のF102Aでスポット参戦する。しかしトラブルが相次ぎ、全力走行ができないままで予選不通過。マキのF1挑戦は幕を閉じた。

マキF102A。マキは1974年からF1に挑戦。1976年のF1選手権イン・ジャパンでは、イギリス人ドライバーのトニー・トリマーがステアリングを握った。

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ティレルP34

F3ドライバーだったケン・ティレルは、1970年にコンストラクターとしてF1に参戦するといきなり好成績を挙げてトップチームに躍り出る。001から007まで高い実力を持つマシンを作っていたが、1976年に独創的なアイデアをF1に持ち込む。

P34と名付けられた6輪車である。空気抵抗を減らすため、フロントに小径のタイヤを採用していた。接地面積も減少するため、タイヤを4つにすることで補うという考え方である。

発表された際には異様な形を見て疑問視する声が多かったが、スウェーデンGPで初優勝を果たす。F1選手権イン・ジャパンでもデパイユが2位に入り、この年のコンストラクターズタイトルでは3位となった。

翌年になると成績は低迷し、ほかに同じ機構を採用するチームは現れなかった。ティレルもオーソドックスなマシンに戻り、1983年に車両規定の変更で6輪車は禁止された。

ティレルP34はデビュー初年度は高い戦闘力を発揮したものの、小径タイヤの開発が進まなかったこともあり、翌シーズンは低迷した。写真は富士スピードウェイにおいてジョディ・シェクターがドライブするP34。

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『ラッシュ/プライドと友情』

2014年に公開された『ラッシュ/プライドと友情』は、ニキ・ラウダとジェームス・ハントが主人公の映画である。ダニエル・ブリュールがラウダを、クリス・ヘムズワースがハントを演じた。

2人がF2でしのぎを削っていた頃から物語は始まる。プレイボーイで陽気なハントと真面目一方のラウダが対比され、どちらも本人が乗り移ったような迫真の演技だ。

中心となるのは、もちろん1976年のシーズン。ドイツGPでのクラッシュから凄絶(せいぜつ)な闘病のシーンは、見ていて痛みが伝わってくるようだ。クライマックスの舞台はF1選手権イン・ジャパンである。

撮影では富士スピードウェイは使われていないが、CGで作られた富士山が不気味な空気を醸し出す。30台ものカメラを使った映像はリアルで、1970年代のF1を見事に再現している。

『ラッシュ/プライドと友情』 価格:¥3,000(税抜) 発売元:ギャガ (C)2013 RUSH FILMS LIMITED/EGOLITOSSELL FILM AND ACTION IMAGE.ALL RIGHTS RESERVED.

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[ガズ―編集部]

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