織戸学 ドライバーズコラム 第3回 大好きなドリフトのお話 その1

こんにちは MAX織戸です。
寒い日が続きますね。今回は、僕の大好きなドリフトにまつわる昔の話しようと思います。

日本で、ドリフトという名前が出てきのが、1988,9年くらい、僕が17,8歳くらいかな。それまでは、レーシングやラリー業界などでは、今でいうドリフトの事を逆ハンドル(逆ハン)や、カウンターステア等と言っていました。実は、ドリフトとは、航空用語なのです。飛行機が気流の影響で斜めに飛ぶ事を指します。

ドリフトと言えば、なんと言っても土屋圭市さんです。富士フレッシュマンレース怒涛の8連勝!ここでクルマをスライドさせても速かったので、ドリフトキングという異名がつきました。その当時は、雑誌のヤングマガジンのシャコタンブギでも、しばらくドリキン(ドリフトキング)で出ていたり、雑誌CARBOYでもドリフトを多く取り上げ始めたられたりしたのもこの時期です。

話を少し戻しちゃいますが、1986年頃からは、世界でも稀に見る2輪レーサーレプリカ世代、日本の各バイクメーカーがレースで活躍するマシンのレプリカを販売し、一世を風靡しておりました。その反面、僕らが高校生のころに、「3ない運動」というのが始まりました。バイクに、乗せない、乗らせない、免許を取らせない。法律では16歳で免許を取得できますが、高校生は取ってはだめでした。いや、ダメになったのです。多感なこの時期に、バイクに乗れないなんて、喉が渇いて死にそうな時に目の前の水を飲ませないようなものです。

僕は、試しに原付の免許を取得しましたが、3日後に学校にバレ免許没収にて停学処分を受けました。親にも内緒だったから怒られましたね(笑)。理由はわかりますが、本来は事故を起こさないような教育をする事ができれば、少しは違うのでは無いか?なんて思います。海外では16歳で車の免許を取り、運転する事もできるというのに…。

僕の誕生日は12月です。18歳になる一ヶ月前から、自動車免許の教習所に入校できます。しかし、免許は取あげられている。そこで校長先生に直談判です。僕は、レーサーになるから自動車免許は必要だから取らなくてはいけない!だから原付の免許証を返してください!と。そうしたら、作文を20枚書いて来いと言われました。もちろん、書きましたよ!レーサーになるための事業計画書の夢を!

その後、特別に内緒で原付の免許証を返してもらい、自動車免許取得。この時の教習所通いは異様に楽しかったですね~、なんせ同じ歳の女の子がたくさんいるんだもん!

クルマの次はバイクの免許をとり、バイクで走り回ったね、毎日本気で。この頃はもうバイクに夢中だったのよ。今では信じられないだろうけど、信号のたびに走り屋の皮ツナギ着たレーサーレプリカバイクに遭遇し、常にバトルモードだった。自動車整備の専門学校の頃です。楽しかったな~。

ドリフトの話からそれてしまったけど、ここがスタート。当時の峠や埠頭は、2輪の宝庫だったんだ。そして、どんどん2輪が走れない環境になっていってしまった。
僕らのせいだよ。本当に。
そして、2輪から皆4輪に変わって行ったんだ。また、そこにはタイミングよくドリフトという目標が出来上がってきていたんだね、僕も含めて当時のみんなは。
この時代が、ドリフト第一世代。走り回った、毎日、毎晩、毎週、そして多くの仲間ができた。でも僕は、チームとかが大嫌いだった。同じステッカー貼ってとか、まとまって走るとかありえなかったね。こんな話は自慢できる事ではないのよね、そもそもいけない事だから…。

僕は1990年に日本発の初代ドリコンチャンプになりました。その後ドリフトは、一時休止。25年後の今年2015年、僕はドリフト競技ドライバーの引退を宣言致しました。これで僕も、ドリキン(ドリフト禁止)ね。

なぜ?辞めたのか??
続きは、次回に!

Max 織戸

[ガズー編集部]