イギリスから里帰りして16年、1968年式ホンダ・S800Mクーペを心から愛でる

ホンダの「S(エス)」といえば、どんなモデルを思い浮かべるだろうか?最新モデルならS660、惜しまれつつ生産終了となったS2000もその系譜にあたる。1960年代には、S500、S600、S800の各モデルが相次いで発売されたことを忘れてはなるまい。S500はオープンモデルのみだったが、S600(エスロク)、S800(エスハチ)にはクーペとオープンモデルが用意された。それぞれが実にキュートで魅力的なフォルムを纏っていることは知っての通りだ。当時、新車で手に入れることができた幸運なオーナーたちも、寝床でカタログを広げ、クーペとオープン、どちらを手に入れるべきか?といった贅沢な悩みを抱えながら眠りについたのだろうか。

今、目の前にある個体はS800Mクーペ(以下「エスハチ」)だ。販売開始は1966年。1970年までの間に、オープンモデルが3,640台、クーペモデルは7,749台生産された。1960年代に活躍したホンダF1を連想させるアイボリーホワイトのボディカラーに、ブラックアウトされたホイールが足元をひきしめる。運転席にはバケットシートが奢られ、停まっていても全身からレーシーなオーラを漂わせている。助手席に愛犬を乗せているオーナー氏に話し掛けてみた。

「エスハチは子どもの頃から憧れていました。1999年頃から本気で探し始めたんです。縁あって2000年にこの個体と出逢い、ようやく手に入れることができました」。一見するとフルオリジナルではないようだが、その点も聞いてみた。「私が所有している1968年式のMクーペは輸出のみで、日本国内では販売されていないモデルです。この個体もイギリスに輸出され、日本に里帰りしてきたわけですね。Mタイプのエスは、オープン、クーペともに輸出を考慮したサイドマーカーが装着されているのが特長です。ある専門ショップでボディのレストアが施された状態で売りに出ていて、購入時にエンジンをボアアップ、ハイカムを組み込むなど、私好みにチューンしてもらいました。サスペンションやバンパーレスも私のオーダーです」。

エンジンをチューンする際に装着するキャブレターも変更したという。「オリジナルのCVからよりレーシーなCRに変更してもらったんです。実はこれが原因で、納車後すぐに高速道路でエンジンが焼き付きまして…」。電子制御式の燃料噴射装置に慣れたユーザーにはピンとこないかもしれないが、キャブレターはセッティングが必要だ。湿度や高度によって、噴射する燃料を調整しなければならない。それがレーシーなタイプであれば、よりシビアでピンポイントな調整が求められる。もはや楽器の「調律」に近い。

エスハチを購入したショップがオーナー氏の自宅から離れていることもあり、地元のバイクショップにメンテナンスを託しつつ、キャブセッティングのレクチャーを受けた。所有してから16年間で5回のエンジンオーバーホールを行っているというから驚きだ。1度エンジンをバラすと、各部のセッティングもイチからやり直しだという。純正品のように馴染んでいるタコメーターは日本計器製。オリジナルのメーターは8500rpmがレッドゾーン、11000rpmまで目盛られているが、この個体は9000rpmがレッドゾーン、12000rpmに変更されている点も決して大げさではない。「2速全開であっという間に吹き上がります。エスハチのエンジンは回してナンボです」と熱っぽく語るオーナー氏の気持ちも理解できる。それこそが「ホンダのエス」を所有する真骨頂であり、オーナーのみに許された特権なのだ。

こうして試行錯誤して組み上がった現在のエンジンには、ヨシムラ製MJN(マルチプルジェットノズル/Multiple Jet Nozzle)キャブレターがセットアップされている。このキャブレターもカワサキGPZ900用のものを流用、キャブレターのピッチを合わせるためのスペーサーをワンオフで制作し、装着している。つまり、ベースはバイク用キャブレターというわけだ(ジェット類の変更とセッティングは必要になるが、同一ピッチのキャブであれば他のモデルでも装着可能とのこと)。「エスハチのエンジン+ヨシムラ製MJNキャブレター」の組み合わせはこの個体のみ。これまで前例がないのだ。

「キャブセッティングは実走で詰めました。何しろデータの蓄積がないので、すべて手探りですけれど、そこがまた楽しいんです」。実はホンダ・ビートと三菱・パジェロioも所有しているというオーナー氏。パジェロioがあれば、日常の足として心強い。その分、このエスハチは思いっきりレーシーな方向に振ったチューンも可能だ。

ハヤシ製アルミホイールや当時モノの社外品フロントスポイラーが、否応なく熱い走りを予感させる。信号待ちでフェラーリなどの大柄なスーパーカーが隣に並んでも、このエスハチなら存在感で互角に渡り合える。

「ようやく手に入れたエスハチですから、手放すつもりはありません。これからはエンジンを労りつつ、大切に乗り続けていきたいですね」。かつてイギリスに輸出され、生まれ故郷の日本へ舞い戻ってきたこの個体も、生産されてまもなく50年。しかし、旧車と位置付けるには忍びないほどの現役感を醸し出している。手間と労力を惜しみなく注ぎ続けてくれるベストパートナーに出逢ったことは、この個体にとって限りなく幸運だったことは間違いない。

(編集: vehiclenaviMAGAZINE編集部 / 撮影: 古宮こうき)

[ガズー編集部]

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