若手カーデザイナーが「中古のマーチ」に見いだした自動車の本質

子どもの頃、母がフィアット プントを購入したことをきっかけに車好きとなり、小学5年生のときには「将来はカーデザイナーになる」と決意。小学校、中学校それぞれの卒業文集でその熱き想いを披露し、そのままブレずに、本当に大手自動車メーカーのデザイナーとなった。

最初に買った車は、初任給のほぼ全額を頭金にぶち込んだフィアット パンダ。その後は中古のフィアット バルケッタを増車し、さらにはポルシェ ケイマンと日産 フェアレディZを乗り継いだうえで、現在はアバルト 595Cも所有している。

……そんな人物像を聞いたときに、あなたの胸に去来する感慨のひとつは、おそらくは以下のニュアンスであるはずだ。

「相当な車好きで、なおかつ車にかなり詳しい人なんだろうな」

今回の主人公である松下伸彦さんが「相当な車好き」であり、なおかつ「車にかなり詳しい」というのは、たしかにそのとおりである。

だが今年1月に、言ってみれば「何の変哲もないハッチバック」である先代の日産 マーチを購入した松下さんは、しみじみとこう言うのだ。

「今までに都合6台の車を買いましたが、何と言いますか、僕としてはこのマーチによって『あぁ、自分は初めて“自動車”を買ったんだな。そして、自動車というのは本当に良いものなんだな』と、実感することができたんです」

お若い世代ではあるが車の購入および所有経験は豊富で、そもそも自動車作りのプロフェッショナルである松下さんは、このありふれたハッチバックのなかに何を見つけたのか? 以下、順を追ってご説明しよう。

車好きになったきっかけは、前述のとおり母がフィアット プントというイタリアのハッチバック車を購入したことだった。

「母はそれまで運転免許も持ってない人だったのですが、なぜかプントのデザインにひとめぼれしたらしく、『プントに乗りたいから』という理由で教習所に通いはじめたんです」

ネットもなかった時代ゆえ、どこに行けばプントを買えるのかすらわからなかった。だが調べてみると「フィアットのディーラー」というところへ行けば買えるらしいことがわかり、松下家の面々はそろってフィアットディーラーへと向かった。

「そのときに、イタリア車のデザインや色使いに衝撃を受けたんですよね。それまでに家族で行ったことがあった国産車のディーラーとは、当時の僕には何もかもが違って見えました」

もともと絵を描くのが大好きで得意だった松下少年は、「ぼくが考えたくるま」のデザインスケッチ多数を描くようになった。そして「どうやら世の中には、この雑誌に載ってるジウジアーロさんみたいな『カーデザイナー』という仕事があるらしい」と知り、前述のとおり小学5年生のとき、それになることを決意。
そのままブレることなく美術系の大学を卒業し、誰もが知る日本の大手自動車メーカーにカーデザイナーとして就職した。

「で、初任給でフィアット パンダを買って、中古のバルケッタも増車して、でも会社の研修でドイツのシュツットガルトに行ったことをきっかけに『やっぱポルシェ、すげえ!』となって(笑)、バルケッタを売却して中古のポルシェ ケイマンに乗り替えて、それに3年ぐらいガンガン乗った頃、大阪と東京で遠距離になっていた学生時代からの彼女――つまり今の妻ですが、彼女が転勤で東京に越してくることになったんです」

同じ東京に住まうのであれば、結婚も見越して一緒に暮らそうじゃないかということになったが、問題は車である。

運転自体は好きな妻・茉莉花さんではあるが、免許はAT限定だ。つまり、マニュアルトランスミッションのポルシェ ケイマンはどうしたって運転できない。

「じゃあ2人で運転できて、なおかつ僕の趣味的な部分も満足させられる車にしようということで、アバルトの595Cに買い替えたんです」

アバルト595Cとは、フィアット500Cをベースとするスポーティな派生モデル。最高出力160psのホットな1.4Lターボエンジンを搭載する4座のオープンカーだが、変速機はATモード付きの5速シーケンシャルトランスミッションであるため、AT限定免許の茉莉花さんでも運転できる。

「で、それとは別に通勤用として日産 フェアレディZの中古車も買ったんです。自分ひとりのときはMTのZに乗って、茉莉花と2人のときは、運転を交代しながらアバルトに乗ろうと思って。彼女、MT車の運転はできませんが、車の運転自体は好きな人ですから、これで完璧だと思ったのですが……」

だが完璧ではなかった。アバルトを運転する茉莉花さんの表情が、どうにも楽しそうには見えないのだ。

ここについてはご本人、つまり茉莉花さんに語ってもらおう。

「車の運転自体はすごく好きなんですよ。大阪にいたときは『サクラピンク』の先代マーチをものすごく気に入って乗ってましたし。でもアバルトは……音が大きいし、アクセルをちょっと踏むとぶわっと前に出ちゃうのも怖いし。あと、バックカメラは付いてるんですが、それでも、どうしても上手く駐車できないんですよね……」

アバルトを運転するときの茉莉花さんの不安げな顔、決して楽しくはないといったニュアンスの表情に気づいていた伸彦さんだったが、ある日、決定的な事件が起きた。

「幸いにして激突はしなかったのですが、茉莉花がアバルトをバックで駐車させようとしていたとき、どうも後ろがよく見えなかったみたいで、車輪止めの間を通過してしまい、そのまま壁に突っ込んじゃいそうになったんです」

それを見た伸彦さんは、即座にフェアレディZを売却。そして即座に、茉莉花さんが「以前は楽しく乗れていた」という先代日産 マーチの中古車を購入した。総額30万円だった。

「最初はね、K12(先代マーチ)のデザインは男が乗るにはちょっとフェミニンすぎるかな……とも思いました。でもこのクリーム色と水色内装の組み合わせは絶妙というか、僕が好きなイタリアのコンパクトカーに通じる部分があって、『これならいいかな?』と思えたんです。でもそれ以上に大変(?)だったのは、僕が国産中古車のことをまったくわかってなかった――ということでした」

マニアックな輸入車専門店で、マニアックな車種にマニアックな納車整備を施し、それなりのお代を支払って輸入車を購入してきた伸彦さんにとって、「車両価格12万円の国産中古車」は完全に未知の世界だった。

「『じゅ、12万円! そんな安い中古車は絶対に壊れるはず!』と思って、販売店の人に『タイヤは新品に交換してください。あとバッテリーも、製造年月を見るとそろそろ替えたほうが安心だと思うので、新品に替えてください。あと、ブレーキローターの研磨もお願いします!』と言ったのですが、販売店の方は『この手の車でそこまでやる人はいませんし、やる必要もないと思いますが……』みたいな感じで、かなりとまどってらっしゃいました(笑)」

輸入車の中古車の場合は、そこまでのケアをすると結構な支払額となるのが一般的だが、12万円の先代マーチは、そこまでやっても総額30万円にしかならなかった。

「で、中古の輸入車だと『そこまでやっても結局壊れる』みたいなこともあるのですが(笑)、マーチはいつまでたっても壊れないんですよ。……今まで、それぞれ300万円ぐらいずつ出して5台の輸入車に乗ってきましたが、6台目の『30万円のマーチ』が、自動車としては一番優秀だったという(笑)。燃費も乗り心地もいいし、どこへでも、故障や下回りを擦ることなどを気にせず、妻と2人で楽しく乗っていけますしね」

そして松下伸彦さんは言う。「今の僕は、『生まれて初めて自動車というものを買った人』みたいな気分なんです」と。

「車って便利なんだな。あると、生活が劇的に楽しく、豊かになるものなんだなぁ……って、実は初めて実感できました。まるで70年前のフランスの農民が、牛車や手押し車からシトロエン 2CVという自動車に初めて替えてみた際に『うわっ、車って超便利!』と感じたのとたぶん同じことを、今の僕は感じているのだと思います」

中古のマーチが松下さんにとっての「初めての自動車」なのだとしたら、これまでの5台は何だったのだろうか?

「あの5台は、自動車ではなく“おもちゃ”ですよね。もちろん僕にとっては“おもちゃ”も大切ですから、マーチとは別にアバルト595Cも相変わらず所有してますし、通勤や、自分1人で車関係のイベントに行くときなどはアバルトを使ってます。でもそれ以外の場面では――今やほとんどマーチを使ってるんですよ。妻も、本当に楽しそうにマーチを運転しますしね。妻のそんな顔が見られるのも、僕にとっては大きな歓びのひとつなんです」

ベーシックで使い勝手の良い車がすぐそばにあること。そして愛する人とともに、それを使いながら“生きる”ということの、かけがえのない価値。

ドライビングプレジャーに関しては、22歳でフィアット パンダを買ったときからよく知っているはずの松下伸彦さん。そんな松下さんは30歳となった今、それとはまるで別種の新しいプレジャーを、初心者として噛みしめている。

その新しいプレジャーは果たして何と呼称されるべきなのか、筆者は寡聞にして知らないが。

(文=伊達軍曹/写真=阿部昌也)

[ガズー編集部]

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