まめ八のブログ

トヨタ・エスティマとダイハツ・ソニカに乗る熊本在住のオヤジのブログです。<BR>車の事は勿論、趣味のドライブ、模型作り、熱帯魚飼育や、世間の(身の回りを含む)出来事などに対する主観極まりない戯言を徒然なるままに綴ったブログです。<BR>火の国熊本の自然や歴史なども紹介できればと思います。<BR>どうぞお気軽にお立ち寄り下さい!

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悲哀・・・健軍飛行場と義烈空挺隊

まめ八が住んでいる家から1kmほど離れた場所に、まめ八が小学校の2年生のころまで熊本空港がありました。当時はこの空港の事を健軍飛行場と呼んでいた記憶があります。

この健軍飛行場は、太平洋戦争が始まった昭和16年に三菱重工業熊本航空機製作所が建設された際に作られたもので、旧陸軍によって軍用飛行場としても利用されていました。(まめ八の父親は当時高校3年生だったそうですが、この工場に勤労動員で通って四式重爆飛龍を組み立てていたそうです)

日本が敗色濃厚となり、戦線が日本本土に近付いてくるにしたがって健軍飛行場の重要度は増し、昭和20年には97式重爆撃機を主体とした飛行第60戦隊が配備されていました。

 

さて、その頃には沖縄での戦いが既に始まっており、装備・物量共に優勢なアメリカ軍の攻撃によって沖縄の日本軍守備隊は苦戦を強いられていたのでした。

苦境に立っていた沖縄の守備隊を援護するために、陸・海軍は連日連夜、特攻隊を出撃させて沖縄周辺のアメリカ艦隊を攻撃しますが、猛烈な対空砲火と、レーダーにより誘導された迎撃戦闘機の反撃によってその殆どが撃墜されてしまいます。

そこで立案されたのが義号作戦だったのです。

その作戦とは、奥山道郎大尉以下120名の義烈空挺隊(空挺隊とは今で言うパラシュート部隊のことです)が、諏訪部忠一大尉指揮下の第3独立飛行隊(97式重爆撃機12機)に分乗して、アメリカ軍占領下の沖縄の北飛行場(読谷飛行場)と中飛行場(嘉手納飛行場)に敵前強硬着陸し、爆撃機から飛び出して両飛行場にあるアメリカ軍の航空機や空港施設、物資等を破壊するというものでした。つまり、一度出撃すれば生還の望みが殆ど無い特攻攻撃だったのです。そして、その義烈空挺隊の出撃基地が、まめ八の家の傍にあった健軍飛行場だったのです。

 

義烈空挺隊の出撃は、当時の従軍カメラマンによって映像が残されています。

まずはその映像をご覧下さい。

 

この映像に写っている殆どの方が帰らぬ人になってしまいます。

 

 

義烈空挺隊が出撃して行った健軍飛行場は、昭和35年から昭和46年まで熊本空港として再利用されていました。まめ八も家が近かったことから何度か母親に手を引かれて飛行機を見に行った事を覚えています。

ところが、昭和46年に熊本空港が現在の場所に移転したことから健軍飛行場は閉鎖され、その跡地は急速に都市化してしまいました。かつて健軍飛行場があった場所には熊本赤十字病院や熊本県立大学を始め、多くの公共施設や団地やマンション、住宅、ショッピングセンターが立ち並び、そこにかつて飛行場があったことさえ解らないほど大きく変わってしまいました。そしてそこで生活している人たちの殆どは、健軍飛行場の悲しい歴史を知らないで毎日を過ごしているのです。
健軍飛行場周辺の移り変わり。。。

まずは終戦直後にアメリカ軍が撮影した健軍飛行場。
赤い四角の部分が滑走路です。

 


次は閉鎖されて3年後の健軍飛行場の様子。
この時、まめ八は小学校の5年生でした。
滑走路の一部が残されていますが、その西端(写真左側には早くも熊本赤十字病院の建設が始まっています)

 


そして現在の様子。。。ということで写真を掲載したかったのですが、現在の航空写真を入手する事が出来ませんでした。
もし、現在の様子がご覧になりたいのであれば、Googleマップの航空写真で“熊本市月出3丁目”と検索すれば見ることが出来ますよ。


ところで、まめ八は義烈空挺隊が健軍飛行場から出撃して行った事をかなり以前から知っていました。ただ、その悲しい歴史を示す遺物が何一つ残されていないことや、そんな事があった等と想像さえ出来ない位に変化してしまった風景に健軍飛行場や義烈空挺隊の事はいつしか頭の中から消えていました。
ところが、ある日、沖縄戦について調べ物をしている最中に見つけたHPを見てまめ八の頭に健軍飛行場と義烈空挺隊のことが甦ったのです。
そのHPとは、秋田県在住の水之江拓治氏の力作、『沖縄戦史 公刊戦史を写真と地図で探る「戦闘戦史」』です。
このHPの内容、とにかく凄いです。個人でよくここまで調べ上げたものだと水之江氏の情熱に感心しました。
沖縄戦の公刊戦史を元に、現在の衛星写真や航空写真と、当時の地図や航空写真などを詳細に比較して当時の戦場を割り出し、自らの足でその場所を訪ねて写真を撮られています。
しかも、その方法で特定が難しい戦場については、生存者の方や関係者の方々にも聞き取り調査をされているのです。
このHPの内容は、書籍として出版するに値するレベルだと思います。風化しつつある沖縄戦の記録として、調査内容を是非出版物として世に送り出して貰いたいと思います。
【水之江氏のHP:
http://www.okinawa-senshi.com/

 

さて、まめ八が注目したのは、氏のHPの中で紹介してある義烈空挺隊の記事でした。【参考URL:http://www.okinawa-senshi.com/giretsu.htm
そこには、当時撮られた義烈空挺隊の写真の場所を緻密な分析と考察によって推定し、更にはその推定場所の現在の写真まで掲載されてありました。
記録映像や写真に残る今とは全く違う健軍飛行場周辺の風景が、義烈空挺隊の出撃を何処か別の場所で行われた事のように錯覚させていたのかもしれません。でも、このHPの記事はそんなまめ八の錯覚を一気に現実の物としてくれました。
こうなったらもう居ても立ってもおられません。
早速、HPに載っていた地図を参考に旧健軍飛行場跡地に向かいました。
まず最初に訪ねたのは、当時、健軍飛行場に隣接した形で作られた航空機用の無蓋掩体です。
馬蹄の形をした内側に航空機を入れ、爆撃時の爆風や爆弾の破片から航空機を守るために作られたものです。

写真は近くのマンションから撮らせていただきました。

 

 

マンションの更に上の階から撮影。

上に掲載した航空写真や、義烈空挺隊出撃時の映像からは信じられない位に家が建て込んでいるのがお解りだと思います。

住宅やマンションが立ち並ぶ中、この一角だけがぽっかりと空き地になっていて、まるで時代の流れに抗しているようにまめ八には見えました。

この掩体壕が、この地にかつて健軍飛行場があったことを示す唯一の遺構となってしまいました。

健軍飛行場周辺の土地が民間に払い下げられた後、この場所は永らく竹薮になっていたそうです。その後、竹が伐採されてこの無蓋掩体全体を眺められるようになりました。しかし、悪戯やゴミの不法投棄が後を絶たなかったため、現在では周囲に柵が立てられ、立ち入り禁止になっています。

ただ、この無蓋掩体は、国や県、市による歴史遺構の指定が為されていないことから地主さんの意志によってのみ守られているのが現状です。

健軍飛行場に唯一残された戦争遺構が、いつ取り壊されても不思議ではない状況に置かれている事に、その保存を訴える声が一部の関係者から起こっています。

 

 

その後、水之江氏のHPの記事を元に、戦闘指揮所跡や義烈空挺隊が最後の軍装検査を受けた場所等も見て周りましたが、いずれも、団地やショッピングモールの敷地内になっており、往時を偲ぶ物は何一つ残されていませんでした。

次に訪ねたのが、健軍飛行場の滑走路東端にあたる場所です。

ココでは下の写真にあるように、義烈空挺隊の隊員が爆撃機に乗り込む前に、各々の故郷の方角に向かって頭を下げ、最後の別れの挨拶を行いました。上の終戦直後の健軍飛行場の写真と併せて考えると、背後に健軍川の流れに沿った雑木林と思われる茂みが写っています。

 

 

そして水之江氏の考察によると、上の写真の場所が下の場所になるのだそうです。

この別れの挨拶は、滑走路東側にあった格納庫前で行われたそうです。水之江氏の調査によれば、後ろに移っている茶色の大きなマンション辺りに格納庫があったそうです。

 

 

同じ場所を少し位置を変えて見た写真です。

いまから65年前に、義烈空挺隊の多くの隊員にとって人生最後に踏みしめた土がこのココにあるのだと思うと言いようの無い悲しい気持ちになりました。

なお、上の当時の写真は、夕陽と隊員の影から推測して、写真奥から手前に向かって撮影しているものと思われます。つまりこの写真とは逆の方向から撮られた写真だと思います。

 

 

 

記録映画の中に出て来る、別れの杯を酌み交わしていたと思われる場所。

上の写真から一区画西に移動した場所になります。(先のマンションを基準にして映像の背景に写っている格納庫との位置関係から推測しました)

今は駐車場になっていました。

恐らくこの周辺に住む方々の多くは、今から65年前に必死の覚悟で沖縄に向けてこの地を飛び立って行った若者達がいたことをご存知ない事でしょう。

 

 

同じく、記録映画の中で爆撃機に乗り込むシーンが撮られたと思われる場所。

義烈空挺隊の出撃時刻は16:40。出撃の日付が5月24日なので、その頃の日没位置と隊員や爆撃機の陰から考えて爆撃機は西の方角に頭を向けて南北方向に並んで駐機していたと思います。また、爆撃機の背後に写っている小山・神園山が見える方角から考えても先のまめ八の推測は一考に価すると自負しています。(この辺りは水之江氏の推察と、まめ八の推測は少し異なりますので、機会を見つけて氏に問い合わせてみたいと思います)

 

 

健軍飛行場の滑走路東端であった場所。

現在は市営長嶺団地になっています。

かつてここに空港があったことなど想像もつかないほどの変貌振りです。

義烈空挺隊は、滑走路の東から西に向かって飛び立っていきました。

写真の手前(東)から奥(西)の方角がその方向になります。

 

 

さて、水之江氏のHPをきっかけに始めた健軍飛行場と義烈空挺隊の悲しい歴史を辿る探訪でしたが、自分が住んでいる場所の歴史を深く考える機会となりました。こうした機会を与えて下さった水之江氏には心から感謝申し上げたいと思います。この場を借りて御礼申し上げます。

ただ月並みですが、ここで申し上げたい事は、先の大戦をどう考えるかは人それぞれのお考えがあるかとは思いますが、良きにつけ悪しきにつけ、日本の将来を思い、自らの命と引き換えにしてまでそれを守ろうとした20~30歳台の若者が、この地を発って笑って死地に赴いた事だけは私達は忘れてはならないという事です。

何時の時代でも、自らの意思に反して死にたいなんて考える人はいないはずです。それでも、彼ら義烈空挺隊の勇士は笑って死地に赴きました。

その姿を今の時代に生きる私達は忘れてはならないと思います。

そして“忘れない”という事が、自らの青春と命を投げ出してまで日本の将来の為に殉じてくれた方々への最高の供養になるのではないでしょうか。。。。

今の日本は確かに弱っています。けれども、義烈空挺隊が出撃した時代に比べれば遥かに楽な時代であるはずです。

私達の先輩は必死にこの国を守ろうと頑張って来ました。

私達も同じ血を引いた日本人です。もっと自信を持ちましょうよ。。。

そして今度は、苦境の時代に生きる私達が将来の日本人に何を残せるのか?という事を考えて元気に頑張ろうじゃありませんか!

歴史は連続しています。どのようなイデオロギーや権力であろうともそれを断ち切ることは出来ないはずです。

健軍飛行場は今は跡形もありません。

けれどもそこで起こった歴史的な事実は何人といえども消す事は出来ないのです。あとは、その歴史的事実を後世に生きる人たちがどう捉えるのか、そして、どう生かして行くのかということが大切な事だ思います。

最後になりましたが、今から65年前にまめ八の住む傍にあった健軍飛行場から飛び立ち、二度と故郷の地を踏む事が出来なかった義烈空挺隊及び、独立第3飛行隊の戦没者の御冥福を心からお祈り申し上げます。

 

 


コメント

--------これより以下のコメントは、2013年5月30日以前に-----------
あなたのブログにコメント投稿されたものです。

EP82-SW20 [2010年12月5日 19:25]
こんばんは。
まめ八さん、重いねぇ・・・・。

この人達、降下する事も無く空中で四散してしまったのが殆どではないでしょうか?
当時日本の制空権は無きに等しかったはずですから・・・。

我々は生きている、でも、本当はこの人達の犠牲によって「生かされている」と言うことですよね。

自殺を考えている人が居たら、実行する前にこのような映像を一度は見て貰いたいです。
彼らは死にたくて死んだわけではないのだから。

まめ八 [2010年12月5日 20:29]
EP82-SW20さん、こんばんわ。
いつもコメントを頂き、有難うございます。
この記事、やっぱりかなり重かったみたいですね。(;^_^A
ただ、自分が住んでいる場所で65年前に起こった事ですから、こうした形で残し、そして出来るだけ多くの人たちに知って貰い、彼らの事を記憶に留めておいて貰いたかったので記事にしました。
余りにも変貌を遂げてしまった周囲の景観を毎日眺めながら、この地で自らの一生を国のために投げ出した人たちがいる事を誰かにわかってもらいたかったのです。
彼らが飛び立っていった滑走路の跡に出来た国体道路で、暴走族が走り回っている現状を見た時に、戦後の歴史教育が如何に間違ったものであったのかを痛切に感じています。
“臭い物には蓋をしろ!”“悲惨な歴史は見なかったことにしておけ!”では、彼らが余りにも可哀想過ぎます。
おぺ [2010年12月12日 21:34]
こんばんは。
こうやって当時を思い現地を訪ねることで、あらためて実感をすることができるのでしょうね。映像や本などからの知識とは異なるものですから。
こういう記事はコメントするにも適切な言葉が簡単にはでてきません。皆さんのコメントが少ないのも、まめ八さんの記事の思いがつたわっているからでしょう。
まめ八 [2010年12月13日 21:01]
おぺさん、こんばんわ。
驚愕の6連コメ、有難うございます。
さすが歴史を愛するおぺさん、私の気持ちを見事に察して頂きまして感謝申し上げます。
この記事は確かに重い内容ですが、現代に生きる私達が知っておかなければならない歴史だと思うのです。コメントが少ない事は予想していましたので全く気にはしていませんが、アクセス数が多かったのできっとたくさんの方にご覧になって頂けたものと思います。私はそれでこの記事を書いた目的は達せられたと思っているので満足です。
ちなみに、義烈空挺隊の隊長だった奥山大尉は私が幼少期に住んでいた三重県のご出身、出撃した飛行場は自宅傍の健軍飛行場、そして奥山大尉が散った沖縄に私は暫く住んでいましたし、さらに数年前に沖縄に旅行に行った時に泊まったホテルが義烈空挺の攻撃目標となった旧読谷飛行場のすぐ傍だったという、因縁もこの記事を書いた理由の一つでもあります。

S48生 [2011年8月2日 22:21]
健軍飛行場の検索でここにたどり着きました。
背景に見える、我が故郷「飯田山」が物悲しく、
一方で今も変わらぬ姿を見せる、世のはかなさを感じ得ずにおられません。
貴重な映像有難うございます。
大戦で散った英霊の想いを、次世代に残すことを使命として、今後邁進していきたいと思っております。
まめ八 [2011年8月3日 21:02]
S48生さん、初めまして!
この度は、当ブログにお立ち寄り頂きありがとうございます。
文面からするとS48生さんは熊本ご出身のご様子ですね。
義烈空挺隊の記録映画の中には、飯田山の他、託麻三山、金峰山、そして遠く阿蘇外輪山の山並みが見られます。今では林立するマンションによって我が家からそれらの山々は見えなくなりましたが、今から66年前に起こった出来事を故郷の山々は見てきたのですね。
戦後66年経ち、日本も本当に情けない国になってしまいましたが、S48生さんのお気持ちはきっとこの地を発っていかれた英霊に届いていると思いますよ。
yasu [2011年12月3日 1:02]
健軍飛行場を検索してこのHPを見つけました。
実は父が少年飛行兵時代にここに居た事があり、もう一度行って見たいと常々話していたことを思い出しました。
その父も他界しましたが、その言葉が忘れられず、機会があったら父の位牌とともに行きたいと思っています。
今は本当に変わってしまってるようですが、今度時間が取れた時には、必ず行きたいと思っております。
まめ八 [2011年12月3日 8:29]
yasuさん、おはようございます。
初めまして!
この度はコメントを頂きまして、有難うございます。

お父様が健軍飛行場で青春時代をお過ごしになられたというコメントを読み、感慨深いものを感じております。
健軍飛行場は、元々隣接していた三菱航空機熊本工場に付属する飛行場として完成し、戦局の悪化に伴い陸軍の飛行第60戦隊(97式爆撃機)が移駐してきたと聞いています。
yasuさんのお父様がおられた部隊も恐らくこの部隊ではなかったかと想像します。
残念ながら、健軍飛行場の跡地には、記事に掲載した掩体以外、ココが飛行場であった事を示すものは何も残っていません。ただ、区割り(道路)だけは当時と殆ど変っていないので、記事中でご紹介した水之江氏のHPにある地図をお持ちになられて尋ねられると大体、当時の様子が想像できます。
(長文、リコメで申し訳ございません、続きます)
まめ八 [2011年12月3日 8:40]
上記の続きです。。。

また、健軍飛行場に隣接していた三菱航空機熊本工場の跡地は陸上自衛隊西部方面隊の駐屯地になっています。ココには当時の工場の建物がそのまま残っていますし、義烈空挺隊の慰霊碑が残っています。西部方面隊に事前に連絡を入れておけば見学もできますよ。
ご参考までに、三菱航空機熊本工場の関係者がまとめた資料のURLを載せておきますね。
http://www.wakabauu.net/rekisi/mitubisi2.pdf

記事中にも書きましたが、私の父も当時勤労奉仕として隣接する三菱航空機で働いていました。その父も83歳になります。
時間の推移とともにどんどん歴史が風化していますが、どんなに景観が変わってしまっても、歴史的な事実は事実として伝承していかなければならないと私は考えています。
虎太郎 [2012年11月1日 19:14]
 私は、水前寺に住んでいました。健軍飛行場にも何度も行きました。昔、引き込線の後を飛行場まで行き陸自と東亜国内の航空機を見ていました。陸自の敷地近くに、義烈空挺隊の碑がありましたが、今はどうなったのでしょう。
 ありがとうございました。  S30年生
まめ八 [2012年11月3日 18:34]
虎太郎さん、こんばんわ。
初めまして!
この度は当ブログにお立ち寄り頂きまして、有難うございます。
S30年生という事は、私より8つ年上って事になりますネ。
昔の健軍飛行場をご存知の方からコメントを頂くととても嬉しくなります。
昭和30~40年代に水前寺にお住まいであったという事ですが、その頃でしたら恐らく大江~保田窪~帯山(昔は健軍町、否、廣畑村か託麻村?でしたよね?)は芋畑、桑畑、そして雑木林の何もないトコロだったと思います。
今は、住宅やマンションが密集し、引き込み線も舗装されてその頃の面影は全く残っていません。
健軍飛行場の傍に遭った畜産試験場も今は県立大学と団地になってしまいました。
小学一年生の頃に母と健軍飛行場に飛行機を見に行った帰り道、飛行場の正門あたりから県庁が見えた事を覚えています。それから健軍飛行場の周辺に畑人形を拾いに行っていた事も懐かしい思い出です。
(長文、リコメ申し訳ございません。下に続きます)
まめ八 [2012年11月3日 18:38]
(続きです)
義烈空挺隊の碑は、健軍飛行場の傍らに最初建てられていたそうですが、その後、有志の方々と自衛隊の協力により西部方面隊の敷地内に立派な碑が建立されていますよ。
毎日、自衛隊員の手によって綺麗に掃除され花も手向けられているみたいです。併せて義烈空挺隊の資料室も併設されているみたいです。事前に西部方面隊に予約を入れておけば見学も可能だそうですよ。
それから、最近、熊本日日新聞社から“くまもと昭和空撮”という写真集が出ています。
この他、熊本日日新聞社のHPにも沢山のその頃の写真が掲載されていますので一度覗かれてみては如何でしょうか?
北九 [2012年11月5日 12:01]
沖縄戦関係をいろいろ調べているものです。
義烈空挺隊はとても興味あり、読谷にも何度も行きました。
まめ八さんのページ、とても参考になり、また興味持って拝見しました。

ところで以前、ネットで見たのですが、どうしてもたどり着けないのですが。。。
空挺隊員が銭湯にかよってて・・そこの奥さんと仲良くなって。
出撃前に隊員はお金がもう自分たちには必有ないからとその夫人に渡したそうです。
夫人はのちにその隊員が空挺隊員だったことを知り、戦後にそのお金で地蔵尊を建立し、今も現存している・・・みたいな話でした。

自分の記憶違いなのでしょうか?
ご教示いただければ幸いです。
北九 [2012年11月5日 12:32]
引き続き、申し訳ありません。
探せ出せました。
http://www.tokkotai.or.jp/movie/index.html

ここの義烈空挺隊にありました。
まめ八 [2012年11月5日 19:34]
北九さん、こんばんわ。
初めまして!
この度は当ブログにお立ち寄り頂き、有難うございます。

ご質問の件ですが、私もこの話の事は聞いたことがあります。確か「観音湯」の事だと思います。
「観音湯」は熊本市の黒髪という場所にあった銭湯で、お話の中に出てくる女将さんは“堤 はつ”さんといわれます。
「観音湯」は平成21年まで続けておられましたが、現在は廃業されています。地元ローカル新聞で「観音湯」廃業が取り上げられ、その時に義烈空挺隊員と堤はつさんとの交流の事も報じられていたように記憶しています。
私も調べてみたトコロ、コチラのPDFファイルの22ページにかなり詳しい記事が載っていましたので良かったら参考にして下さい。【http://www.tokkotai.or.jp/kikanshi/tokko_pdf/tokko_84.pdf】
ちなみに、義烈空挺隊員の方が「観音湯」に通っていた当時、私の父も同じ黒髪に住んでいました。
ただし、黒髪から健軍飛行場は決して近くではありません。
こんにちは、はっとりと言います。 [2013年2月4日 19:36]
熊本にこんな所があったとは!?恥ずかしながら全く知りませんでした。とても勉強になりました。ありがとうございます。
早速、掩体跡地に行ってみました。

平地になっていました・・・
立ち入り禁止の柵はあるのですが、残念ながら盛り上がった土はなく、ほぼ平坦の土地になっていました。

多くの人に見て欲しかったです。
まめ八 [2013年2月5日 16:19]
はっとりさん、こんにちわ。
初めまして!
この度は当ブログにお立ち寄り頂きまして有難うございます。

ええぇ~っ!
それ、本当ですか?
私も知りませんでした。
本当なら大変ショックです。残念で仕方ありません。
時間がある時に見に行ってみたいと思います。
それにしても、コレで健軍飛行場の名残は何一つ残っていない事になってしまいました。(後は、道路による地割位でしょうか?)
世の中全体がきな臭くなりつつある今の時代だからこそ、こうした戦争遺構は残しておいて貰いたかった!
そう言えば、大江にある歩兵第23連隊跡地に建てられていた山の上団地の建て替えに伴い、その営門も撤去されるかも知れない、という噂を耳にしました。
時代の流れなのかも知れませんが、先の大戦で散った方々を忘れない為にもこうした戦争遺構は後世に残していかなければならないと私は思います。
瀧治郎 [2013年3月1日 12:33]
はじめまして。
私も小学生の頃、旧熊本空港跡でよく遊んでました。
初めての補助輪をはずしての自転車の練習もここでしまして、初日に転んで唇を切り家に帰って寝かされた記憶があります。
途中の道路わきに廃車となったバスが停めてあり、そのバスにも乗りこんで遊んでましたねえ。
昭和40年代の飛行場の写真をもっと見てみたいですね。
まめ八 [2013年3月5日 22:35]
瀧治郎さん、こんばんわ。
初めまして!
この度は当ブログにお立ち寄り頂きまして有難うございます。

おおぉ~。瀧治郎さんも健軍飛行場をご存知の世代ですか?
嬉しいなぁ~。
私も小学2年生の遠足は健軍飛行場でした。
バスの廃車置き場は水洗と保田窪にそれぞれありましたね。
私も保田窪の廃車置き場にドライバーを持って潜り込んでは車内スピーカーから磁石を失敬していましたっけ。。。(;^_^A
ご存知だとは思うのですが、“健軍飛行場”で検索すると40年代の画像がかなり引っかかってきますよ~。!(^O^)
瀧治郎 [2013年3月13日 12:46]
有難うございました。
いろいろと調べてみます!!
最初暫くは、バスのドアにはカギがかけてなかったのでスピードメーターを失敬して自転車にくくりつけて遊んでいたような記憶があります。

瀧治郎 [2013年3月13日 12:49]
すいません。途中で投稿されちゃいました。
畜産試験場?もありましたよね?
小学生の時写生に行ったのですが、内蔵が側溝にすててあったのを見て暫く肉を食べることができませんでした。
同じ時期に飛行場跡で遊んでいたかもしれませんねぇ。
まめ八 [2013年4月11日 13:40]
瀧治郎さん、こんにちわ。
この度は、せっかくコメントを頂きながらリコメが遅れてしまいました。
本当にゴメンなさい。<(_ _)>

そうそう、飛行場の隣には畜産試験場がありましたね。
小学校から歩いて社会科見学に行ったことがあります。
この畜産試験場を解体した際の廃材が県立大学裏の空き地に極最近まで放置されていましたよ。

畜産試験場横から健軍飛行場の入り口辺りにかけては未舗装の広場になっていて市営バスの転回に使われていました。
その辺りには畑人形が沢山落ちていて良く拾いに行っていましたよ。
今の水洗のバス停が市営バスの終着点だったような。。。
今の風景からは想像もつかない位田舎でしたねェ~

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