京都大学 高坂会のホームページ

日本を代表する国際政治学者であり、熱狂的なトラキチ、そして、ちょっとだけタレントとしても活躍された故・高坂正尭先生の門下生(ゼミ生)で作る高坂会のホームページです。会員の交流&情報発信の場として利用させていただきます。世界各地を飛び回っている高坂先生の教え子の近況や今後の日本の針路に関する真剣な議論を公開させていただきます。

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高坂先生13回忌に寄せて[益田 実/19期]

学部ゼミ、大学院修士、博士課程と高坂先生にお世話になりました三重大学人文学部教授益田実と申します。みなさんそれぞれに長くまた深いおつきあいがおありのことと思いますが、私の個人的な先生に関する記憶を思いつくままに綴らせていただこうと思います。


高坂先生とわたし

19期 益田 実

 昭和40年山口県の片田舎に生まれた私の場合、先生のお名前をはじめてお耳にしたのは確か中学1年生のころだったかと思います。市民夏期大学とやら称する講演会の案内が市の広報にあり、そこに 京都大学法学部教授高坂正堯という名前があったと記憶しております。
 中学の社会科教師が、あれはえらい人物だ、聞きにいけと授業で勧めてくれたのですが、そのころは将来について何も考えておらず、講演に足を運ぶこともございませんでした。
 その後、京大法学部に入学することになり、もちろんその時点では国際政治学者高坂正堯教授がいらっしゃることはしっかり認識しておりました。ただお恥ずかしいことにその時点でもなお将来のことは深く考えて おらず法学部で何を学ぶのかも未定でした。

 2年生になり当時は必修の外書購読という授業があり、そこではじめて高坂先生に教えを受けることになりました。これまたおずかしい話なのですが、実のところ購読内容への興味よりも前年の時間割表から見て都 合の良い時間帯であったので履修申請をしたというのが実情でした。(実際に開講してみると土曜日の午前中の授業でおおいに当ては外れたのですが。)
 高坂先生の講義演習には例外無くこれもまた大人数の授業でした。
 50人以上はいたのではないでしょうか。それゆえあまりあたることはないはずなのですが、誰かが訳を間違えたり、先生の質問に答えられない場合、正解がでるまで順に次々とあたることになっており、実際のところ予習はかかせないというよくできたシステムでした。(自分も含めて)不勉強な学生達によくまあ忍耐深く接しておられたことと思いますが、たまに正しく答えるものがいるとすかさずお褒めの言葉を述べられるところに今思うと先生の優れた教育者としての側面がよくあらわれていたと思います。

 3年生になった時点で書物だけは選ぶことなく色々と読んではおりましたが、本格的に何を勉強すべきか理解できておらず、積極的なゼミ選択の手がかりはほとんどないという状況でした。その結果ほぼ皆勤した数少ない授業である2年時の外書購読で教わった高坂先生のゼミに履修申請をさせていただいとというのが実情でした。これもまた大人数が希望を出し、30名程度に抑えるため、先生は半数をくじで、半数を試験で選ばれたと記憶しております。
 その中で私は一番に当たりくじを引き、ゼミ参加を認められるという僥倖に恵まれました。うがち過ぎかもしれませんが、歴史における偶然と必然どちらも過度に重視も軽視すべきではないというのが先生のお考えだったのではないでしょうか。結果的に私の場合、一枚のくじがその後の人生の進路のほとんどを決したわけであります。

 ゼミが始まってもなおうすぼんやりとした形でしか国際政治学を学ぶということは理解できておりませんでした。4年生前期になった時点でもっと勉強をしなくてはいけないのではないかと考えるに至り、意を決して先生に大学院に進学したい旨を申し出ました。この時点では研究テーマも極めて曖昧でしかなかったのですが、先生は特にその点を追求することもなく、「君、勉強は好きか」とお尋ねになりました。自分の返事は「はい!」というより「はあ」に近いものではなかったかと記憶しておりますが、続いて「もしかしたらもうちょっと早くなるかもしれんが30歳くらいまで食えんかもしれんが大丈夫か」と問われ、これまた「はあ」とお答えして、それで「ならええよ」となり大学院に進むことになった次第です。

 さすがにその後は勉強をしました。そして勉強をすることにより次第に自分のやりたいことも見えてきました。以後、途中で2年間のイギリス留学をはさんで6年間、院生として先生のご指導を受け、また同門の先輩方の薫陶を受ける機会を得ることができました。今思うと自らの勉強不足故この貴重な機会を最大限に活用できなかったことは悔やまれるばかりですが、折々のご指導のお言葉の数々は、それぞれ短くはあっても大変に深くこちらの弱点を突くものであり、また資質を伸ばすべく意図されたものであったかと思います。
 極めて個人的であり、なぜそんなことをここで語る? と思われるかもしれませんが、大学院のコンパの席で森鴎外の書簡を読む面白さなど研究と無関係な趣味(?)の話をしたところ「君はほんま歴史家やなあ」とおっしゃってくださったことはとりわけ忘れられないものであります。
 もちろん力不足の弟子への励ましであったのだろうと解釈しますが今でも支えになっております。

 三重大学赴任後1年と少しで先生はご逝去されました。その後しばらく糸が切れた凧のような状態で細々と研究を続けておりましたが、ここ5、6年ようやく自分の目指すものが見えて参りました。ここに至る過程でも結局は先生を通じて接することのできた多くの先輩や後輩の皆様に導かれたわけです。そろそろこれまでの研究成果の一部を人様にお見せすることができるかなと考えておりますが、先生がどう評価してくださるかは空想するしかございません。誠に詮無いことです。

 研究者を目指すものにとって先生は指導教員として一つの理想的な振る舞いをされた方であろうと考えます。それがどういう振る舞いなのか、おそらくは一番の不肖の弟子である私にはなかなか要約できないのですが、今回のように皆様からご寄稿いただければ、点描のような短いエピソードの積み重ねが「教師としての高坂正堯」の全体像を描き出すことにつながるのではないでしょうか。
 職業柄、主に英米人を対象とした徹底的にリサーチされた評伝というものを読む機会が多いのですが、誤解を恐れずに言えば「国際政治学者としての高坂正堯」がいかなる人物であるかは、むしろ文献でしか先生に接することのできない世代の方々によって語られるほうが歴史記述としては望ましいのではないかと考えます。
 しかし謦咳に接する機会を与えられ、その人となりの一端を知ることのできた世代の人間のみが有する特権というものも間違いなく存在するのであり、できるだけ多くの高坂会会員の皆様に、その特権を行使していただきたいと思うところです。

(三重大学人文学部教授)

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