京都大学 高坂会のホームページ

日本を代表する国際政治学者であり、熱狂的なトラキチ、そして、ちょっとだけタレントとしても活躍された故・高坂正尭先生の門下生(ゼミ生)で作る高坂会のホームページです。会員の交流&情報発信の場として利用させていただきます。世界各地を飛び回っている高坂先生の教え子の近況や今後の日本の針路に関する真剣な議論を公開させていただきます。

京都大学 高坂会のホームページ 前の記事次の記事

5 16
高坂先生13回忌に寄せて[高坂節三さん]その4

高坂先生の実弟の高坂節三さんから、新しく寄稿を2本頂きましたのでご紹介します。


兄を思う、その4―イギリスで思う

高坂節三

 5月の連休に思いもかけず、英領ガーンジー島を訪問し、ビクトル・ユーゴーの避難先やコーネット城を訪問することが出来ました。
 英国よりもフランスに近いChannel Islands は、戦略的に重要な位置を占めており、1940年ヒットラーは、その中心のガーンジー島を占領したのです。チャーチルはこの島の防衛の難しさを熟知し、ドイツ軍が占領する前に、多くの住民が本国に避難しました。特に子供たちは全員疎開したのですが、再び両親に会えることが出来なかった子供たちが多かったことを聞きました。兄と一緒に集団疎開をした経験があるため、身につまされて街を見物しました。港の入り口に、1945年5月9日の戦勝を記念して“And our dear Channel Islands are also to be free today” という、」チャーチルの言葉が刻まれていました。
 兄がこの事をどの程度知っていたかは判りませんが、1973年1月から半年間、イギリスの戦略研究所に客員研究員として滞在し、イギリスから見た第二次世界大戦の歴史なども勉強していた筈ですから、ドイツに占領された唯一つの島として記憶していたのではないでしょうか。

 兄がイギリスに行った頃、私はブラジルに駐在していました。1969年12月に父を亡くした母に、海外旅行を勧めたのは二人の兄たちでした。母は一度だけ、父と一緒に、ハワイで行なわれた東西哲学者会議に出席し、着物姿で鈴木大拙さんと一緒に撮った写真がハワイの新聞に大きく載ったのを大層喜んでいました。そうした思いをしていましたので、今度は兄がいるロンドンへ行くのを大変楽しみにしていました。その前に私のいるブラジルに一週間ほど滞在し、元日にはサンパウロから車でイグワスの滝までドライブしたことを覚えています。
 リオからロンドンに向かった母を兄が迎えることになっていました。研究員で比較的自由な時間があったようで、色々な本を読み、研究所の人たちとの会話を楽しんだと同時に、親子の楽しいひとときに、お互いに心を休めたのでしょう。半年という短い期間ということもあって、家族が日本に残ったこともあって、母が近くのお店で買い物をして日本料理を作ったと言っていたことを憶えています。
『昭和の宿命を見つめた眼』で書きましたが、兄は高校生時代に父に薦められてジョン・スチュアート・ミルの『自由論』を原書で読み、その後リンゼイの『Karl Marx’s Capital』そして、家庭教師になっていただいた源了圓先生の勧めで『Political Thought in England』 の4部作を読み、イギリスに対する特別な感情を持っていましたので、この半年のロンドンの滞在は本当に実りのある充実したものであったと思います。

 イギリスについてのまとまった論文はありませんでしたが、新潮社の月刊誌「FORESIGHT」にイギリスの政治についての意見が書かれ、没後『世界史の中から考える』の一部として収録されましたが、それ以前に『近代文明の反逆』(社会・宗教・政治学の教科書「ガリバー旅行記」を読む)の中で、随所にイギリス人とその歴史についての知見が披露されています。おそらく、ロンドンでの半年間の経験がなければ、こんな本は書けなかったのではないでしょうか。
 スイフトが『ガリバー旅行記』を書いたのは、ジョージ一世の時代でした。「スイフトが青年期から熟年期に達する間のほとんどの期間、英仏は休みなしに戦っていた。すなわち、1689年から1697年までアウグスブルグ同盟戦争が戦われ、四年の中休みの後、1701年にスペイン継承戦争が始まり、1713年のユトリヒト条約までつづくのである。実際、この二十数年間は、近代ヨーロッパの国際体系が作られる前の動乱期であったと言える」と兄は書いています。そして秀でた歴史家トレブェリアンの言葉を引用しています。「名誉革命前十年間のイギリス政治の混乱と暴力沙汰は、プロテスタント対カソリックという問題を含む議会対王権の争いと、国教会対非国教徒という問題を含むトーリー対ホイッグの争いという二つの別々の争いが、無節操な相対立する人たちによって押しつけられたという事実によるものであった」のです。ガリバーの見る巨人国が当時の英国であったとし、ペシミストで皮肉屋の天才・スイフトが「醜さが見えすぎた」とも書いています。

 そして、兄はこう書いているのです。「実際、当時のイギリスほど世界史上不思議な時代は珍しい。買収は悪い。シニシズムは普通は悪い。しかし、その世紀後半には賞賛されるようになる議会主義の始まりを画することになったこの時代は、買収の方が血なまぐさい闘争よりもましだという時代だったのである。いや、何よりも、この時代の不思議さはジョージ一世が暗愚で俗物であることによって責任内閣制の成立に貢献したことに現れている。ジョージ一世は英語もわからず、政治など難しいことよりも女の方に関心があったから、始めの数回を除いて閣議に出席しなかったが、それが責任内閣制を発達させることになった。しかし、そう言えるのは後世の人々だけである。常識的に言っても、馬鹿な王様の方が良いなどと言えるものではない。当時のイギリス人はため息と共にジョージ一世について語ったにちがいない」と。
「そして、自分の住む時代に対して、徹底して、かつ深く反発することは、秀れた反時代的思考を生む。スイフトはそうだったのである」としています。「ねじれ国会」をため息まじりに見ている我々にとって、現在の状況が結果的には賞賛されるような議会主義の始まりになってはくれないでしょうか。
 スイフトの政治嫌い、科学嫌い、人間嫌いの誤りは、その後の「歴史によって証明された」としながらも、「しかもなお、スイフトが完全に誤っていたとは言えないのである」として
「彼から二百年以上たった今日、・・・不均衡な精神の持主であるスイフトの考えが的中するかも知れないのである」として、文明が成功しすぎ、人間がなにをするにも大きな力を持つようになったことが、「なんとも困ったものである」のではないか、と兄は警鐘を鳴らしています。


(コンパス・プロバイダーズL.L.C. ゼネラルパートナー/東京都教育委員)

コメント

この投稿に対するコメントはありません。