京都大学 高坂会のホームページ

日本を代表する国際政治学者であり、熱狂的なトラキチ、そして、ちょっとだけタレントとしても活躍された故・高坂正尭先生の門下生(ゼミ生)で作る高坂会のホームページです。会員の交流&情報発信の場として利用させていただきます。世界各地を飛び回っている高坂先生の教え子の近況や今後の日本の針路に関する真剣な議論を公開させていただきます。

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高坂先生13回忌に寄せて[高坂節三さん]その5

高坂先生の実弟の高坂節三さんの寄稿を続いて、ご紹介します。

兄を思う、その5―塩野七生さんと兄

高坂節三

 塩野さんと兄の付き合いが何時から始まったかは知りませんが、おそらく粕谷一希さんの紹介で始まったのでしょう。塩野さんが、日本に一時帰国される時は、殆どいつも二人は会って、話し合っていました。そして兄がイギリス滞在中にもっとも頻繁に連絡していたことは、塩野さんの書かれた兄の著作集第五巻の解説ではっきりしています。
 「高坂さんと私が精神的に最も近かったのは、何年前か忘れたが、彼がイギリスの戦略研究所に研究留学していた時期だった。その頃の彼とは、フィレンツェに住んでいた私はしばしば電話で話し合った。イギリスとイタリアだから時差はない。それにヨーロッパ内だから、国際電話代も安く済んだ。双方とも、眠りにつく前のゆったりした時間を共有できたのである。話題は、研究所での研究課題という彼の分野ではなく、西欧の歴史、つまり私の分野がもっぱらだった。その理由を高坂さんは、研究所の同僚たちとのコーヒー・ブレーク(いやイギリスだからティー・ブレークか)で話される話題が、まったくと言ってよいほどに歴史なんだ、と言っていた」、また「週末を利用して、高坂さんがフィレンツェを訪れたこともある」、「研究所が休暇に入った夏のはじめに、高坂さんはロンドンから、私はフィレンツェからいずれも南下して、シチリア島のタオルミーナで落ち合って過ごした一週間くらい、言いたいこと聴きたいことを遠慮なくぶつけ合った時期はなかったのである」とも書いているのです。

 兄が、自分の書いた本の中で一番良く売れたのは『文明が衰亡するとき』であったと言っていましたが、塩野さんは「『文明が衰亡したとき』を刊行当初に読んだ私の頭にまず浮かんだのは、これは戦略研究所の同僚たちとの対話にプラス、G(当時の塩野さんの婚約者)との対話の所産だということであった」との印象も綴っています。
 兄が亡くなる直前、NHKの番組で『ローマ人の物語』についての、塩野さんへのインタービューがありました。たまたま、下鴨の家で一緒にテレビを見ていた時に、兄が「彼女は毎年一巻づつ書く、そのために家もローマに移した。偉いやっちゃ」と言っていたことを思い出します。塩野さんのほうも「彼への敬意は、三十年の間まったく変わりはなかった。『ローマ人の物語』を書きはじめる前に、会って話したいと願ったのは彼だけである。」として「願いを容れて会ってくれた」時のことも著作集の第五巻解説に記しておられます。

 帝国ホテルで開かれた兄をしのぶ会(これは塩野さんと入江昭さんが一時帰国時に開いたものですが)の席上、塩野さんはあまりに突然で、残念でお墓に参る気持ちも起きないこと、兄とはイタリアの歴史について競著(共著ではなく)を書く約束をしていたことなど淡々と話しておられました。兄は無精者で自分の書いた本は贈っていなかったようですが、塩野さんは、すべての著作を兄に贈ってくれていたようです。兄が亡くなった後、『ローマ人の物語』は必ず「高坂節三様方、高坂正堯様」として私宛に贈って下さったのです。
 そして『ローマ人の物語』の第七巻、第一部「ティベリウス」の項の最後のところに「皇帝ティベリウスを語ったこの章を、1996年に亡くなった国際政治学者の高坂正堯氏に捧げたい。生前に高坂さんは、ローマ皇帝の中ではティベリウスに他の誰よりも共感をいだく、と言われた。なぜかをただす前に亡くなってしまったが、ティベリウスを書き終えた今、その理由がわかるような気がする。」と結んでおられるのです。


(コンパス・プロバイダーズL.L.C. ゼネラルパートナー/東京都教育委員)

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