わたしの自動車史(後編) ― 津々見友彦 ―

第1回 日本グランプリにおいて。ワークスの日野コンテッサを、筆者の駆るDKWが追う
ダットサン・フェアレディ
トヨタ1600GT
トヨタ・クラウン(6代目)
トヨタ・セルシオと筆者

ジープに続いて手に入れたのがDKWだ。私は1963年5月に開催される日本グランプリに出場する決意を固めており、そのためのクルマが必要だった。
当時でもベンツ、BMWは高根の花。輸入車の主役の座は、キャデラックやシボレーなどの大型車から、そろそろヨーロッパ車に移りそうな時期だった。また1950年代あたりから、日本の国情に合う小型のヨーロッパ車が、各メーカーでノックダウン生産されていた。庶民的なところでは、例えば日野がルノーとジョイントしてリアエンジン、リアドライブの4CVを。後に日野は、ここで得たノウハウをベースに独自モデルのコンテッサを誕生させている。このほかにも、日産がBMCのオースチンを、そしていすゞがルーツのヒルマンを生産していた。一部のエンスーな人たちは、このヒルマンをコラムシフトからフロアシフトに改造したり、エンジンにツインキャブレターを装備したりしてスポーティーな雰囲気を楽しんでいた。

私はあまり深いクルマの知識はなかったが、それでもポルシェがスポーツカーでレースに向いていることぐらいは知っていた。中古のポルシェを探すが、とても高くて貧乏学生の及ぶところではない。
そこでポルシェによく似たフォルクスワーゲンのビートルに狙いを付ける。当時、フォルクスワーゲンは輸入車として絶大な人気があった。ベンツより手軽に手に入るからだ。といってもそれはベンツに比しての話。中古といえども高い。当時は大学卒の初任給が2万4000円ぐらいだったが、確か60万円以上した覚えがある。今日の額に換算すると500万円以上!これでは買えない。そんなとき、渋谷のガソリンスタンドで「For Sale」と書いたクルマがあった。30万円だったところを25万円程度に値切り、これは父親になんとか出してもらった。

DKWは今日におけるアウディの前身、あの“フォーリングス”のマークのもととなった4メーカーのひとつだ。エンジンは700ccの2サイクル3気筒。FFで、とても先進的なクルマだった。自分で改造して戦った第1回の日本グランプリでは、日野コンテッサのワークスカーに交じって見事5位入賞を果たしてくれた素晴らしいクルマだった。この第1回 日本グランプリをきっかけに、私はレーシングドライバーの道を歩むようになる。日産のワークスドライバーになってからは、街中では羨望(せんぼう)のフェアレディSP311に乗れてとても楽しかった。が、これは貸与車だから自分で購入はしていない。次に在籍したトヨタワークスではトヨタ1600GTが貸与車になった。これはとても気に入っていた。クーペスタイルの精悍(せいかん)なルックス、1.6リッターのDOHCエンジン、5段MT。走りだせば、盛大なサウンドに強烈な速さ“感”を感じる。エンジンサウンドの大きさが速さを錯覚させていたような気もするが、とにかくスパルタンで楽しいスポーティークーペだった。

MT仕様のクルマはこれが最後。レースをする以前は、ダッシュパネルにズラリとメーターを並べ、ミッションは4段より5段、5段より6段と、多段ミッションが好きだった。エンジンサウンドも大きく、またサスも硬めのスポーティーなクルマに憧れていた。それが、仕事でいつもレーシングマシンをサーキットで走らせるようになると、逆に静かで、楽なクルマへと嗜好(しこう)が変わった。自宅とサーキットの往復ぐらい心安らかに走りたいからだ。以来、私の欲求を満たしてくれたのがクラウンだ。静かで楽に走れ、頑丈で維持費も安い。2代目、3代目、4代目、6代目と乗り継ぎ、最後にはセルシオにたどり着いた。現在もセルシオは私のお気に入りだ。静粛性が高く、しかも強力な動力性能。スタイルにも知的なイメージがある。手に入れてはや21年目となり、走行距離も10万kmを超えたが、今でも乗るたびにハッピーになるクルマだ。

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[ガズ―編集部]