【技術革新の足跡】運転を民主化せよ――セルフスターターという大発明(1912年)

よくわかる 自動車歴史館 第66話

2大高級車ブランドを作ったリーランド

キャデラックとリンカーンという、アメリカを代表する2つの高級車ブランドを作り上げたヘンリー・マーティン・リーランド。
量販モデルとして世界で初めてV8エンジンを搭載した、キャデラック・タイプ51。
リンカーンは1922年にフォードの傘下に入る。写真はその契約に調印する様子を撮ったもので、テーブルの後ろに立つのがヘンリー・リーランド(右)とヘンリー・フォード(左)である。

ゼネラルモーターズ(GM)は2009年の経営危機を克服し、今も世界トップクラスの自動車会社であり続けている。シリコンバレーのIT産業が脚光を浴びる現在では、重厚長大な旧型の企業というイメージがあるかもしれないが、GMには数多くの技術革新で自動車業界をリードしてきた歴史がある。1940年にはオールズモビルに世界初の全自動変速機ハイドラマチックを搭載しているし、1962年のターボチャージャー装着も市販のガソリンエンジン車としては初めての試みだった。

そして、GMの中で最も多く最新技術にチャレンジしてきた歴史を持つのが、キャデラックである。量産型V8エンジンやV16エンジン、シンクロメッシュ機構、ダブルウィッシュボーン式前輪独立懸架、パワーステアリング、ヘッドランプの自動調光システム、エアコンディショナーなど、キャデラックが先陣を切って採用した技術は枚挙にいとまがない。GMのトップブランドであるからこそ、高級車として魅力的な装備をまとう必要があった。

キャデラックはヘンリー・マーティン・リーランドによって、1902年に設立された。その経緯がややこしいのだが、まずは精密工作機械のエンジニアだったリーランドが、ヘンリー・フォード・カンパニーという会社にチーフエンジニアとして迎えられる。前任者はあのヘンリー・フォードである。彼は出資者と対立して会社を辞めると、翌年フォード・モーターを設立することになる。そして、彼の去ったヘンリー・フォード・カンパニーが改組して誕生したのが、キャデラック・モーター・カンパニーだった。キャデラックという社名は、デトロイトを開拓したフランス人貴族の名にちなんだものだった。

1909年になるとキャデラックはGMに買収され、高級車ブランドとして同社のイメージリーダーを担うことになる。リーランド自身は1917年にGMを離れ、新たにリンカーン社を設立して高級車作りを始めた。それが1922年にフォード傘下に入る。リーランドは、アメリカの2大高級車ブランドを生んだ人物なのだ。

世界で初めて部品標準化を達成したキャデラック

イギリス王立自動車クラブからキャデラックに贈られたデュワートロフィー。中に入っているのは、ヘンリー・リーランドの息子のウィルフレド。
当時の一般的な自動車の始動の様子。男性が車両の前に回り込み、そこから突き出たクランク棒を回している。

リーランドは、1908年に自動車製造に画期的な方法を持ち込んだ。部品の標準化を達成したのである。当たり前のことのように思われるが、当時の自動車は誕生からまだ20年余を経たにすぎず、ほとんど手作りのような状態だったのだ。一台一台が少しずつ異なっており、汎用(はんよう)部品という発想はなかなか生まれなかった。故障すれば、その部分に合わせた部品を作って対処するしかなかったのである。

1908年、キャデラックはイギリス王立自動車クラブ(RAC)の部品互換性テストを受けた。ロンドンに送られた8台の中から3台が無作為に選ばれ、ブルックランズサーキットで試運転が行われる。その後3台は721もの部品に解体。エンジンは開けられ、ピストンやコンロッドも外された。このうちの89部品はRACによって保管され、代替部品がロンドンから運ばれた。それらを使って再び3台のキャデラックが組み立てられ、完成した車両はサーキットを快走した。

キャデラックは、世界で初めてこのテストに合格したメーカーとなった。部品は高度に標準化され、それによって大量生産が可能になったのである。自動車を大衆に普及させるには、欠かせない技術だった。この功績が認められ、キャデラックはRACからデュワートロフィーを授けられた。その年に自動車技術の進歩に最も大きな貢献をした会社に与えられる賞で、当時は自動車界のノーベル賞とまで言われる権威のあるものだった。

キャデラックは、世界で唯一デュワートロフィーを2度受賞した会社である。2度目に受賞した技術も、自動車の発展にとって極めて大きな意味を持つものだった。それは、セルフスターターである。現代から見るとあまりにも普通の装備だが、これは人命を救う技術だったのである。

4ストロークのガソリンエンジンは、吸入−圧縮−燃焼−排気という4つの過程を繰り返して動力を取り出す。ピストンの往復運動がクランクシャフトの回転運動に変換され、連続的にガソリンがエネルギーに変えられていくわけだ。ただ、この過程が始まるためには、まず外部から力が加えられる必要がある。自ら回転運動を引き起こすことはできないのだ。

かつて、この作業は人力によって行われていた。ボディー前端にエンジンにつながるソケットが設けられていて、そこにクランク棒を入れて力を込めて回し、エンジンを始動させたのである。この機構は戦後でも残されている場合があり、シトロエン2CVでもクランク棒によるスタートができた。国産車でも、1960年頃までは緊急用にソケットを備えるモデルがあったのだ。

バッテリーと小型モーターが人命を救った

電動モーター式のセルフスターターを開発した、発明家のチャールズ・フランクリン・ケッタリング。
キャデラック・モデル30。このクルマの1912年モデルに、初めてセルフスターターが採用された。
1912年のキャデラック・モデル30の印刷広告。クランクなしでエンジンを始動できることが、大きくうたわれている。

人の手でクランク棒を回すのは、簡単なことではなかった。ガソリンの燃焼による回転動作を行うのだから、大きな力が必要になる。点火系が弱いとなかなかエンジンが始動せず、コツが求められた。

ある冬の日、リーランドの友人がキャデラックで立ち往生している女性を見かけた。クランク棒は女性の力では回すのが困難で、見かねた彼は助力を申し出たのである。この紳士的行為が、悲劇を呼んだ。運悪くクランクが逆回転し、あごの骨を折る大ケガをしてしまったのだ。これがもとで、その男性は亡くなってしまう。リーランドは責任を感じ、自動でエンジンを始動させる方法を開発することを決めた。

この要望に応えたのが、発明家のチャールズ・ケッタリングだった。彼は1910年に新しいエンジン点火装置を開発している。それまでのマグネトー式が不安定だったのに対し、彼の作ったイグニッション式の点火装置ははるかに高い確実性を持っていた。

自動車にかかわる前のケッタリングの発明に、モーター式のキャッシュレジスターがある。電動化で効率を高めることに成功しており、それをエンジン始動にも生かせるのではないかと考えた。しかし、卓上に置けるキャッシュレジスターとエンジンでは、大きさがまったく違う。大人の男性がこん身の力でようやく回せるクランクなのだから、同じことをさせるにはモーターは巨大なものになってしまうというのが当時の常識だった。

ケッタリングは、別な考えを持っていた。そもそも彼の開発したイグニッション式点火装置は、強力なバッテリーから供給される電流をコイルによって電圧増幅して強い火花を発生させるものだった。クランキングに必要なのはごくわずかな時間なので、バッテリーと小型モーターの組み合わせで十分だと考えたのである。

1911年2月、リーランドはケッタリングのセルフスターターを装備した試作車をテストした。出来栄えを見て実用に耐えうるものだと確信したリーランドは直ちに2000基を発注し、翌年の1912年からセルフスターター付きのキャデラックが販売されたのである。

ケッタリングのシステムは現代のものとは異なっており、24Vのモーターとしてエンジンを始動させた後は6Vのジェネレーターとして働き、バッテリーを充電する仕組みである。電気システムによって自動車をコントロールすることが可能になり、イグニッション式点火装置とヘッドランプも合わせて近代的な自動車の構造が確立したのである。

当初セルフスターターは女性向けのオプション装備だったが、その便利さが知れ渡ると瞬く間に広まっていった。1908年に販売が開始されて爆発的な売れ行きを示していたT型フォードにも、1917年から装備された。エンジン始動は、ケガをしたり命を失ったりする危険な行為ではなくなったのである。

キャデラックは1950年代から60年代にかけて巨大なテールフィンを用いた派手なデザインを採用し、人々から熱狂的な支持を集めた。今も豊かなアメリカを象徴する憧れの高級車であり続けているが、運転を民主化して自動車を大衆のものにした立役者もキャデラックだったのだ。

1912年の出来事

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豊川順弥が白楊社を設立

1924年に誕生した白楊社のオートモ号。

20世紀初頭、日本にも自動車に興味を持つ人々が現れ始めた。中でも日本初のカーマニアといわれるのが、有栖川宮威仁親王である。親王はヨーロッパ留学中に自動車の魅力を知り、フランスでダラックを購入。日本に持ち込む際には、雇い入れた運転手も一緒に帰国させている。

大倉財閥の御曹司である大倉喜七郎は、ケンブリッジ大学在学中に自動車レースに出場している。彼は帰国の際に、5台もの自動車を持ち帰った。日本国内でも産業博覧会などに自動車が出展されるようになり、外国人が自分のクルマを持って日本にやってくることも増えていった。

山羽虎夫の蒸気自動車や吉田信太郎のタクリー号など、自動車製造の試みも行われるようになっており、1911年には日産の源流の一つである快進社が設立された。1912年に豊川順弥が創業した白楊社も、日本の自動車産業にとって重要な一歩となった。

三菱財閥の一族に生まれた彼は幼い頃から機械好きで、旋盤などの工作機械を製造する会社を興す。その後、1915年にアメリカに行き、自動車社会を目の当たりにすることとなった。帰国すると自動車製造に乗り出し、1921年にアレス号、1924年にオートモ号を完成させる。白楊社は1928年に解散するが、ここで自動車を学んだ人材が、後に初期の日本自動車産業で大きな役割を果たすことになる。

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東京・新橋でタクシー営業が始まる

1662年、パリで乗合馬車が初めて走った。考案したのは、哲学者のパスカルである。これは現在のバスにあたるものだが、タクシーのもととなったつじ馬車が現れたのはもっと早く、1625年頃にはロンドンを走っていたようだ。自動車の時代が始まると、馬に代わってエンジンが動力を担うことになる。

日本で初めてタクシーが走ったのは、1912年とされている。有楽町にタクシー自働車株式会社が設立され、T型フォード6台で営業を開始した。いわゆる流し営業はなく、車庫で注文を待つ形態である。1マイル(約1.6km)で60銭、以後半マイルごとに10銭が加算されるメーター式だった。

当時は山手線が一区間5銭、市電が4銭という時代で、かなり高価な乗り物だった。運転手の給料も高く、客からのチップも含めると月に100円を超えることもあったという。大卒初任給が15円ほどで、運転手は憧れの職業だった。

タクシーは全国に広がり、質の悪い業者も参入して料金のトラブルも発生するようになった。1924年になると、大阪で1円均一の料金で走るタクシーが登場する。これが円タクと呼ばれ、明朗な会計が人々に歓迎された。

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タイタニック号沈没

1997年に公開された映画『タイタニック』は、全世界で大ヒットし、18億3500万ドルの興行収入を記録した。これは、同じジェームズ・キャメロン監督の『アバター』に抜かれるまで史上最高の数字だった。この映画で主演を務めたレオナルド・ディカプリオは大スターとなった。

ストーリーは事実に基づいたもので、1912年のタイタニック号沈没事件が描かれている。タイタニック号は北大西洋航路用にイギリスで建造された豪華客船であり、全長は269.1mに達し、29基の石炭ボイラーを動力としていた。また下層デッキの隔壁は遠隔操作で閉鎖することができ、安全性も万全な“不沈船”といわれた。

4月12日、タイタニック号はサウザンプトン港からニューヨークに向けて出港する。乗員と乗客を合わせて約2200名を乗せた処女航海だった。そして14日の23時40分、ニューファンドランド沖を航行中に見張りが高さ20mの氷山を発見する。その距離は400mほどで、もはや回避は不可能だった。海霧によって視認が遅れたのだ。タイタニック号は右舷を損傷し、浸水が始まった。防水隔壁は崩壊し、衝突から2時間40分後に船体は2つに折れてしまった。海に投げ出された人々は低体温症に陥り、短時間で絶命したという。犠牲者は約1500人に及ぶ。

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[ガズ―編集部]