【モータースポーツ大百科】グランプリレース(前編)

1906年第1回ACF GPで優勝したルノーAK 90CV。4気筒1万3000ccエンジンを搭載。(Renault Archives)
1911年ACF GPで2位に入ったフリードリッシュのブガッティT13。(Bugatti Archives)
DOHCは、プジョーが1912年用の3リッターエンジンに初めて採用した。(Peugeot Archives)
フィアットは排気量2リッター以下の規定に合わせてスーパーチャージャーを備えたティーポ805を投入した。(Fiat Archives)
アルファ・ロメオの2リッター規定グランプリマシンとして大きな成功をおさめたP2。(Alfa Romeo Archives)
1926年からマセラティ兄弟はクルマ造りを始め、グランプリカーを手掛けた。これは1.5リッター規定のティーポ26。(Maserati Archives)

自動車の発達には自動車レースが密接にかかわっていた。新しい技術の多くは、まず車両規定で縛られたレースカーに採用され、市販車に広まっていくことが少なくない。

ドイツで誕生したガソリン自動車が特許を取得したのは19世紀後半の1886年のことだが、早くも9年後の1895年には歴史上初めてのスピードを競うレース、パリ〜ボルドー〜パリ(1180km)が開催されている。これ以降、レースに勝つためにマシンの性能は向上し、急速に高速化していった。これに呼応して1898年には安全を確保するため、初めてフォーミュラ(規格)が設けられた。以来、性能向上とフォーミュラ改定の関係は、現在まで続く“イタチごっこ”となった。

最初のフォーミュラは車両重量規定のみだったが、次第にそれだけでは不十分となり、排気量やエンジン自体の構造、ボディーの形状や寸法、空力、タイヤなどさまざまな項目で管理されるようになっていった。この、フォーミュラで管理されたレースの頂点に位置するのがグランプリレースで、現代の四輪レースではF1(フォーミュラ1)グランプリがこれに当たる。

初めてグランプリの名を冠したレースが開催されたのは1906年のことだ。ルマンの公道を閉鎖し、フランス自動車クラブ(ACF : Automobile Club de France)が、第1回ACFグランプリを開催している。このレースの勝者は、4気筒1万3000ccのエンジンを搭載したルノーAK 90CVに乗るフェレンク・シジズで、2日間、1236kmのレースを平均速度101.195km/hで走りきっている。1906年当時のフォーミュラは車重を1000kg以下とだけ定め、高速化につながる大排気量エンジンの搭載を抑えようとしたものだった。翌1907年には燃費規制を採用し、1908年にはピストンの表面積と車重を制限するなど、急速な技術革新に対応して目まぐるしく変わっていった。だが、厳しいフォーミュラは参加者の造反を招くこともある。オーガナイザーがフォーミュラを定めても、参加者(メーカー)がそれに従うとは限らず、規定から離れたフォーミュラ・リブレでグランプリレースが成立するシーズンも存在した。

1910年頃になると、大排気量エンジン搭載車を敵に回し、小排気量ながら軽量な車体と軽快な運動性を武器に勝利をおさめるマシンが出現した。その筆頭が、フランスのブガッティが造ったタイプ13で、1911年のACFグランプリでは2位に入賞している。優勝車のフィアットS61コルサは、4気筒1万ccの90bhpエンジンを搭載して車重は1010kgだが、ブガッティ・タイプ13の4気筒エンジンは1368ccの30bhpながら、車重はフィアットの3分の1以下の300kgと身軽で、動きも俊敏だった。

1914年には、グランプリ・レギュレーションとして初めて排気量制限が施行され、4500cc以下とすることが決まる。これにより、定められた排気量の中で最大限の出力向上を図ることが技術者の命題となった。エンジン効率を向上する技術として登場したのがDOHCエンジンだ。1912年のマシンにプジョーが初採用し、翌1913年のL3bizが大成功をおさめている。また過給器(スーパーチャージャー)も同様で、1922年から施行された排気量2リッター以下、車重650kg以下の規定に合わせて1923年にフィアットが採用して大成功をおさめた。これ以降、第2次大戦直後までの長きにわたってスーパーチャージャーを備えないグランプリカーは勝てなくなった。

レースで大きな成功をおさめてきたフィアットは、1927年シーズン末でグランプリレースから撤退。イタリアの期待は1920年の創業時からモータースポーツに積極的に取り組んでいたアルファ・ロメオに掛かった。その活動に大きく貢献したのが、フィアットから招いたヴィットリオ・ヤーノ技師と、チームマネジャーのエンツォ・フェラーリであった。また、マセラティも1926年頃からグランプリカーを手掛けるようになり、これ以降、しばらくイタリア勢がグランプリレースを席巻した。

(文=伊東和彦/Mobi-curators Labo.)

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[ガズ―編集部]