日産フェアレディZ――アメリカよ、これがスポーツカーだ! (1969年)

よくわかる自動車歴史館 第108話

スポーツカーのビジョンを見せた片山 豊

MacintoshやiPhoneを生み出したのは、スティーブ・ジョブズだとされている。しかし、彼はエンジニアではない。初期のアップルは天才プログラマーのスティーブ・ウォズニアックが支えていたし、Macintoshプロジェクトを立ち上げたのはジェフ・ラスキンだ。ジョブズが示したのは、コンピューティングの未来である。ビジョナリーとして道を照らし出したことで、彼は今もなお語り継がれる存在となったのだ。

片山 豊も、同様な位置にいると言っていいだろう。彼はアメリカで「Father of Zcar」と呼ばれている。アメリカの販売網を整備してダットサンブランドを広めた功績が知られているが、日産本社では役員にもなれなかった。エンジニアでもデザイナーでもない彼が今も人々の記憶に残っているのは、スポーツカーのビジョンを見せたからだ。

日産フェアレディZの生みの親として、日米双方で広く知られている片山 豊。米国におけるダットサンブランドの浸透に尽力し、その功績がたたえられて1998年に全米自動車殿堂入りを果たした。

片山が日産に入社した1935年、日産は多摩川スピードウェイで行われたレースでオオタ号に敗れた。スポーツカーを量産したいという思いを持っていた鮎川義介社長の命を受けた日産チームはスーパーチャージャーを装備したスーパーダットサンを開発し、翌年のレースでは勝利を飾った。その後軍用車両の生産に専念せざるを得なくなるが、戦争が終わると日産はいち早くスポーツカーの開発を始める。1952年に戦後初の国産スポーツカーとしてDC3を発売するが、このクルマはまだ戦前モデルの焼き直しにすぎなかった。

1952年に登場した、DC3と呼ばれる初代ダットサン・スポーツ。その設計は戦前のモデルに準じたもので、1957年には戦後設計のS211こと2代目にモデルチェンジしている。

日産は小型セダンの開発に力を入れ、1955年にトラックシャシーを使ったダットサン110を発売する。1958年には1リッターOHVエンジンを搭載したダットサン210となり、このクルマでオーストラリアラリーに参戦してクラス優勝を果たした。片山も同行しており、モータースポーツでの活躍が大きな宣伝効果を持つことを目の当たりにした。

1959年にトラックとは別のシャシーを持ったブルーバード310が発売された。1962年には310をベースに1.5リッターエンジンを搭載したオープンカーのSP310シリーズが作られる。最高速度155km/hを誇るスポーツカーは1963年に行われた第1回日本グランプリでは、MGやトライアンフといったイギリス勢を破って優勝を果たす。日産は日本のスポーツカーの先頭を走っていた。

SP310シリーズこと2代目ダットサン・フェアレディは、第1回日本グランプリで海外のスポーツカーを抑えてB-IIカテゴリーで優勝を果たした。写真は優勝したマシンそのもので、ドライバーは田原源一郎が務めた。

ダットサンブランドをアメリカに広める

他の国産メーカーも黙ってはいない。1963年にホンダがS500、1965年にトヨタがスポーツ800を発売する。1967年にはトヨタ2000GTとマツダ・コスモスポーツも登場した。日産も2リッターエンジンのSR311を投入するが、最新技術をつぎ込んだ他メーカーに比べると、後れを取ってしまった感は否めない。

1963年に登場したホンダS500(左)と、1965年に登場したトヨタ・スポーツ800(右)は、サーキットでも好敵手同士として名勝負を繰り広げた。

この時期、片山は日本にいなかった。1960年から、彼はアメリカのロサンゼルスを拠点に活動していたのだ。当時の日産は商社に販売を委託していて、現地の状況を把握できずにいた。市場調査の名目で渡米を命じられた彼は、販売体制の不備を目にすることになる。アメリカでは戦後クルマが不足し、ヨーロッパ車の輸入が増えていたが、すでにそのブームは終わっていた。アフターサービスを怠ったメーカーは在庫の山を築き、売れ続けていたのはしっかりとしたユーザーサポートを行っていたフォルクスワーゲンだけだった。

おざなりなやり方では存在感を示せないと考えた片山は、商社に頼らず自前の販売網を作ることを提案した。ロサンゼルスにアメリカ日産を設立し、副社長として西海岸での販売を担当する。ほとんど認知されていない中ではなかなか相手にされなかったが、地道に販売店をまわることで体制を整えていった。西海岸では次第に販売成績が向上し、1965年には片山がアメリカ日産社長に就任する。

1967年のアメリカでのモーターショーの様子。品質の向上やディーラー網の拡充に伴い、ダットサンブランドはアメリカ市場で受け入れられていった。

クルマの品質も向上し、ダットサンの名は広く知られるようになっていった。セダンの売れ行きは好調だったが、片山は満足していなかった。ブランドイメージを上げるには、スポーツカーが必要だと考えたのだ。フェアレディ1500をダットサン・スポーツ1500という名前で販売していたが、オープン2シーターではユーザー層が限られる。日常でも不便なく使え、パワフルで運転が楽しいスタイリッシュなスポーツカーを売りたいと熱望していた。

アメリカではジャガーEタイプやポルシェ911の人気が高かった。走行性能もスタイルも一級品だったが、価格が高くて誰もが購入できるようなクルマではなかった。性能が良くて安価なスポーツカーがあれば、必ずヒット商品になる。日本に帰るたびに、片山は日産本社で自らのプランを説明してまわった。共感を示したのは、設計部長だった原 禎一と若手デザイナーの松尾良彦である。片山の考えは、次第に形になっていった。

当時アメリカで人気を博していたポルシェ911。ポルシェは従来モデルの356の時代から、アメリカのスポーツカー市場で受け入れられていた。

もちろん、1人だけの思いでクルマができあがるわけがない。日産でも、さまざまなスポーツカーの計画が立てられていた。ヤマハからスポーツカーの共同開発の提案があり、A550Xという試作車が作られたこともある。ほかにもいくつものプランがあったが、いずれも日の目を見ることはなかった。日産にはフェアレディとシルビアがあり、新たなスポーツカーを開発する必要はないという声が大きかった。

手ごろな価格のスポーツカーとして人気が沸騰

設計部長の原は、1967年6月8日に第1回次期型スポーツカー連絡会を開催し、開発をスタートさせる。見切り発車だったが、11月の常務会で正式に計画が承認された。1.6リッターの4気筒エンジンを搭載し、価格は2546ドルとする計画である。高性能版だけに2リッター6気筒を与えることになっていたが、市場の状況を調査した結果、実際にはすべてのモデルが6気筒になった。

仮想敵とされたのは、ジャガーEタイプである。ロングノーズ・ショートデッキの流麗なスタイルを持ち、4.2リッター直列6気筒エンジンでパワフルな走りを実現していた。価格は約6000ドルである。メルセデス・ベンツ280SLは2.8リッターエンジンで7000ドル、ポルシェ911Tは2.2リッターエンジンで6000ドルだった。

1961年に誕生したジャガーEタイプ。伸びやかなロングノーズのファストバックスタイルや、優れた動力性能などによって人気を博した。

また、アメリカではフォード・マスタングやシボレー・カマロなどの「ポニーカー」と呼ばれるスポーティーな2ドアクーペというジャンルも活況を呈していた。輸入スポーツカーと比べればはるかに廉価だったが、それでも人気の大排気量V8エンジンを搭載するモデルともなると、やはり価格は5000ドルを超えた。安価で高性能なモデルを投入すれば、十分に勝機があると日産の開発陣は考えた。

北米での販売価格は、3596ドルに決まった。1ドルが360円の時代で、採算をとるためには製造原価を64万円以下に抑える必要がある。できるだけ共通部品を多く使うなどの工夫でコストダウンを果たし、1969年にまず日本国内で販売が始まった。廉価版で84万円という価格設定にはお買い得感があり、好調な売れ行きを示した。

本丸のアメリカでは、1970年に発売された。国内向けは2リッターエンジンだったが、輸出用にはパワフルな2.4リッターを用意して万全を期している。アメリカのユーザーの反応は熱狂的だった。当初の北米での販売目標は月1600台だったが、発表直後に6000台を超えるオーダーが舞い込む。生産が間に合わず、1年分のバックオーダーを抱えることになった。1万ドルのプレミア価格を付けた販売店もあったという。

北米仕様のダットサンZとともに写真に写る片山 豊。

アメリカの自動車雑誌『ロード&トラック』1970年1月号では表紙を飾り、「誰が2400cc SOHC 6気筒前輪独立懸架のGTクーペを3500ドルで提供できようか?」という絶賛記事が掲載された。アメリカではDatsun 240Zとして販売され、ユーザーは親しみを込めてZcarと呼ぶようになる。ベスト・バリュー・フォー・マネーのZは若者から圧倒的に支持され、初代モデルは9年間で55万台を売り上げた。

アメリカ車は日本の自動車メーカーにとって憧れであり、学ぶべき手本だった。立場は逆転した。Zはアメリカに新しいスポーツカー像を見せつけたのだ。

関連トピックス

topics 1

フェアレディ

DC3からスタートした日産のスポーツカーは、1959年にダットサン・スポーツ1000に発展する。FRPボディーは生産性が悪く、途中でスチールボディーに変更されたものの生産されたのは数十台にとどまる。1960年にエンジンが1.2リッターになり、フェアレデー1200と名づけられた。

当時の社長・川俣克二がミュージカル『マイ・フェア・レディ』を観て感銘をうけたことが命名の理由とされている。1962年に登場した2代目からは、フェアレディという表記になった。ダットサン310型(初代ブルーバード)のシャシーを用い、セドリック用の1.5リッターエンジンを搭載した。

1965年には1.6リッターになり、1967年には2リッターエンジンが追加される。ソレックスのツインキャブレターで145馬力を絞り出し、最高速度は205km/hとされた。国産車としては初の200km/hオーバーカーとされる。

フェアレディの名はZにも受け継がれたが、アメリカでは使われなかった。フェアレディという名はアメリカでは女性的な響きを持つため、スポーツカーにはふさわしくないと片山は考えたのだ。

1965年型のフェアレディ1500。1.5リッターエンジンが搭載されたのはこの年までだった。

topics 2

第1回全日本自動車ショウ

日産で広報宣伝を担当していた片山 豊は、自動車を知ってもらうために日本でも海外のような自動車展示会を開きたいと考えた。他メーカーの担当者に声をかけ通産省の自動車担当課長の賛同も得て1954年に日比谷公園で第1回全日本自動車ショウが開催されることになった。

現在も続く東京モーターショーの始まりで、片山がデザインしたシンボルマークは今でも使われている。プリンス自動車、トヨタ自動車、日産自動車、日野ヂーゼル、三菱ふそう、いすゞ自動車、民生ヂーゼル、オオタ自動車の8社が参加した。

展示は商用車が中心で、ヒルマンやヘンリーJなどのノックダウン生産車も並べられていた。住江製作所が出品したフライング・フェザーは、片山が富谷龍一とともに企画したプロトタイプである。

10日間にわたって開催された自動車ショウには54万7000人が参観に訪れた。日本でも自動車の時代が始まることを予感させるイベントだった。

ショーの会場となった日比谷公園の様子。正式名称は「全日本自動車ショウ」だったが、門の様子からも分かるとおり、当時から「TOKYO MOTOR SHOW」という言葉が使われていたようだ。

topics 3

カルロス・ゴーン

フェアレディZは1989年に4代目となったが、その後10年以上にわたってモデルチェンジは行われなかった。1996年にはアメリカへの輸出が中止されてしまう。日産は困難な時期を迎えており、スポーツカーに力を入れる余裕はなくなっていた。

1999年、日産はルノーとの提携を発表する。ルノーの上級副社長だったカルロス・ゴーンが日産のCOOに就任し、再建に向けて手腕を発揮することになった。片山はすでに日産を退社して久しかったが、本社に要望してゴーンと面会した。Zのアメリカでの販売復活を願い出るためである。

ゴーンは話を聞いて、「Zのことは十分認識しています」と答えた。彼はアメリカミシュランにいた頃、フェアレディZに乗っていたという。Zが日産のイメージ回復に貢献することを熟知していた。

2002年、5代目となるフェアレディZが発表された。アメリカへの輸出も再開され、世界の約100カ国で販売されるようになった。

日産自動車のカルロス・ゴーンCEO。ルノーと日産が資本提携した1999年にCOOとして日産入りし、2001年にCEOに就任した。

【編集協力・素材提供】
(株)webCG http://www.webcg.net/

[ガズ―編集部]