首都高速道路誕生秘話(前編)

高速道路は、自動車を発明したヨーロッパ人が考えたもの。実際に初めて高速道路を造ったのは、イタリアのムソリーニだった。
しかし、首都高速道路(以下、首都高)のような「都市内高速道路網」は違う。大都市の中心部に高速道路網を造るという発想は、実は日本人の発明なのだ。

長野県の岡谷を経由して、東京・高井戸-愛知・小牧をつなぐ中央自動車道。こうした都市間をつなぐ自動車専用道路については欧州が発祥だが、首都高速道路のように都市の内部を走る自動車専用道路網というのは、前例のないものだった。

すでに戦前、首都高の具体的構想を立てたふたりの男がいる。
ひとりは、新宿の「歌舞伎町」を生んだ、石川栄耀(ひであき)。石川は、内務省の都市計画東京地方委員会に勤務していた昭和13年当時、東京の都市内高速道路案を部下に指示して作らせた。
その部下とは、前年に東京帝大工学部を卒業したばかりの若きエンジニア、山田正男だった。彼が作り上げたのが「東京高速度道路網計画案」だ。これは、とても入省2年目の青年が作ったとは思えない、精緻極まりない案だった。
片側2車線、合計4車線。平均速度は大胆にも「100km/h」。そのためのカーブは半径500mに抑え、勾配も2%以内とした。

当時、日本には国産乗用車すらなく、道路を走るクルマもまばら。100km/h出るクルマなどほとんど存在もしていなかったことを考えると、恐ろしく進歩的な構想だが、戦後山田は「有給大学院生のつもりで、外国の文献を大いに勉強した」と語っているから、欧米の研究を東京に発展的に当てはめ、作り上げたと推測される。

首都高速道路の歴史は1962年末に京橋・芝浦間が開通したことから始まるが、その構想については戦前から練られていた。(写真提供:首都高速道路)

路線については、都心部に現在の首都高都心環状線より一回り大きい環状部を設け、そこから4本の放射線が郊外に向かうというという構想で、現在の首都高の直系の祖先といえる。
また山田は、「交通手段の中心が、近い将来鉄道から自動車に代わり、驚異的な発展をする」と考え、道路の貧しい東京には高速道路網が必要だと見抜いていた。ただし、当面の道路交通の主役は「乗合バス」と考えていた。

1930年代に活躍したいすゞBX40。当時の日本でモビリティーといえば、バスかせいぜいタクシー程度だった。個人所有の乗用車が大きく普及するのは、戦後になってからである。

この構想の最大の特徴は、「高架部分の下を2階建ての建物とし、店舗、事務所、倉庫等として貸与する」としていたこと。
今でこそ、首都高の下に住みたいとは誰も思わないが、高架下の有効活用という発想は極めて斬新な日本的発想だった。現在でも首都高の高架下は、使える部分はほぼ100%何らかの形で使われている。

山田の案では、合計4本の環状高速が構想されており、それぞれ、現在の首都高都心環状線(=C1)、首都高中央環状線(=C2)、外環道、圏央道に非常に近いルートになっている。
首都高だけでなく、現在ようやく完成が見えてきた、いわゆる「首都圏三環状」を、早くも戦前、20代前半の若者が構想していたとは、驚くべき歴史の事実ではないだろうか。
そしてこの山田こそが、戦後、首都高の生みの親となるのである。

※清水草一著『首都高速の謎』(扶桑社新書)を元に構成

(文=清水草一)

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[ガズー編集部]