無敵のポルシェ(1970年)

よくわかる自動車歴史館 第117話

創設直後に始まったル・マンへの挑戦

ル・マン24時間レースといえばアウディというイメージを持つ人が多いかもしれない。事実、2000年に初優勝を果たしてから2016年までの17年間で、13勝という圧倒的な成績を残している。しかし、1923年から始まるル・マンの長い歴史を見渡してみると、ひときわ大きな存在感を示しているのはポルシェだ。勝利数は合計18回で、もちろん歴代1位である。

ル・マン24時間レースの開催を伝えるポスター。第1回大会の参戦車両はほとんどがフランス車で、シュナール・ワルケルが優勝した。

草創期のル・マンで最初に覇権を握ったのはベントレーだった。第1回大会から、今で言うワークスチームである“ベントレー・ボーイズ”が参戦し、4連勝を含む5勝を挙げている。ベントレーが資金難から破綻すると、アルファ・ロメオの時代が訪れる。名車の誉れ高い8C2300で1931年から4連勝を果たした。第2次大戦による中断後はフェラーリとジャガーが競い合う。

1960年代に入るとフェラーリの独走状態になったが、1966年にフォードGT40によって7連勝を阻止された。巨額の資金を投じたフォードは破竹の勢いで、王座は揺るぎないものと思われた。しかし、巨象のすぐ後ろには初の栄冠を目指して激しく追い上げる技術者軍団がいた。ポルシェである。

1966年のル・マンで優勝したブルース・マクラーレン、クリス・エイモン組のフォードGT40。フォードはこの年からル・マンで4連覇を果たす。

ポルシェのル・マンへの挑戦は、1951年に始まる。ポルシェは1948年に創設されたばかりのスポーツカーメーカーだったが、まだ試作車レベルだった356SLをサルト・サーキットに持ち込んだ。エントリーされた2台のうち、1台はレース前のトライアルで起きた事故で失われてしまう。単騎で出場することになったのは、1086ccの水平対向4気筒エンジンをリアに積むアルミニウムボディーのマシンである。

最高出力は45馬力にすぎなかったが、軽量を生かして160km/hまで速度を伸ばすことができた。2人のフランス人によってドライブされた356SLは2840.65kmを走り、751cc〜1100ccのクラスで第1位となる。同じクラスに出走していたメルセデス・ベンツを打ち破ったのだ。総合成績でも20位に入っている。

1951年のル・マン24時間レースの様子。写真の先頭を走るのがポルシェ356SLで、メルセデス・ベンツなどを抑えてクラス優勝を果たした。

デビュー戦としては上々の成績だったが、技術者たちは満足していなかった。この年の優勝車であるジャガーCタイプは3611.193kmを走破している。目標はあくまでも総合優勝なのだ。栄光に向けて、ポルシェの長い戦いが始まった。

打倒フォードのために開発された917

1953年からはミドシップマシンの550が投入された。翌年には待望の1.5リッターDOHCエンジンが搭載され、戦闘力を高めていく。小排気量クラスで毎年のように優勝する実力を確立したポルシェは、フェラーリとフォードの対決が注目される中で904、906などのレーシングカーを開発し、総合でも上位入賞の常連となる。1964年に市販が開始された911も、2年後にはサーキットに姿を現した。

1966年のタルガフローリオに投入されたポルシェ906。1960年代に入るとポルシェは多数のプロトタイプレーシングカーを開発し、実績を積んでいった。

FIAの車両規定の変更に対応し、ポルシェはプロトタイプレーシングカーを続々と登場させた。1968年にグループ6の排気量が3リッターに拡大されると、前年の907を改良したシャシーに水平対向8気筒エンジンを搭載した908を参戦させる。しかし、5リッターまでのエンジンを使えるグループ4のフォードGT40には歯がたたなかった。

猛威をふるうフォードを倒すための切り札が917である。開発期間はわずか10カ月だった。新たな武器は、908の8気筒エンジンに4気筒を加えた12気筒4.5リッターエンジンである。ポルシェの空冷エンジンはシリンダーがそれぞれ独立したモジュール構造で、比較的簡単に気筒数を変えることができた。ただ、8気筒がボクサータイプだったのに対し、12気筒エンジンは180度V12型の形式に変更されている。

ずらりと並べられたポルシェ917。クルマを眺める人物の中には、同車の開発に携わったフェルディナント・ピエヒの姿も。

ポルシェは1969年のル・マンに、4台の917をエントリーし、決勝には3台が残った。プラクティスでは14号車がラップタイム3分22秒9、平均速度238.97km/hというレコードをたたき出す。レースへの期待が高まるが、1周目に悲惨な事故が起きてしまう。10号車がメゾン・ブランシュを曲がりきれずにクラッシュし、ドライバーが死亡したのだ。

14号車は最初の1時間をトップで走ったものの、オイル漏れを起こして15時間目にリタイア。その後トップに立った12号車も21周目に止まってしまう。優勝したのはジャッキー・イクスが乗ったフォードGT40である。ただ、ポルシェには一筋の光明が見えた。2位に入ったのはカーナンバー64の908だったのだ。フォードとの差はわずか130m。旧型マシンで健闘したことは、917の信頼性を高めれば勝利をつかむことができるという確信を抱かせた。

1970年のル・マンにフォードは参加していない。4連勝という結果を残したことに満足し、撤退を決めたのである。出走した51台のうち、24台がポルシェだった。GTSクラスには11台の911だけでなく、914/6も1台エントリーしている。917は7台で、うち3台は600馬力の5リッターエンジンを搭載したマシンだった。

1970年のル・マン24時間レースにて、スタートを待つガルフカラーのポルシェ917KH。917にはロングテールタイプの917LH、ワイドボディーの917/20など、さまざまな仕様が存在した。

必勝を期し、3台の917がワイヤー・オートモーティブに託された。前年までフォードのレースをマネジメントしていたジョン・ワイヤーの率いるチームである。デイトナ24時間レースではワンツーフィニッシュを決めており、勝利は間違いないと思われた。しかし、12時間目までに3台すべてがリタイアを喫してしまう。

1980年代最強を誇った956と962C

この年のル・マンは、ひどい悪天候に見舞われた。ユノディエールでも真っすぐ走れない状態で、次々に有力なマシンがレースを去っていく。ジャッキー・イクスの乗るフェラーリ512Sも早々に姿を消した。ゴールできたのはわずか7台で、完走率はル・マン史上最低の13.7%。そのうちの5台がポルシェである。優勝したのは、赤と白に塗り分けられたカーナンバー23。ザルツブルグチームからエントリーしたマシンだった。2位にも917、3位には908が入り、ポルシェは表彰台を独占した。

1970年のル・マンで優勝した、ポルシェ917の23号車。ドライバーはハンス・ヘルマンとリチャード・アトウッドが務めた。

初挑戦から20年を経て、ポルシェは頂点に上りつめた。翌年も917の戦闘力は飛び抜けていて、1位と2位を獲得する。3位のフェラーリとの差は29周だった。走行距離は5335.313kmで、その後コースが改修されたこともあって記録は39年間破られなかった。ポルシェの黄金時代が到来するはずだったが、翌年のル・マンに917はエントリーしていない。車両規定が変わってエンジンは3リッター以下と決められたからだ。

ポルシェが強すぎると、レースへの興味が失われてしまう。多くの観客を集めたい主催者は、マシンの実力が拮抗(きっこう)することを望むのだ。ル・マンへの道を閉ざされた917は海を渡る。1972年からカナディアン−アメリカン・チャレンジカップに参戦し、ターボチャージャーを搭載したマシンが2年連続でチャンピオンを獲得。917はレース活動を終える。

ポルシェ・ミュージアムに展示された歴代の917。最も奥に見える青と黄色のマシンが、カナディアン−アメリカン・チャレンジカップに投入された917/30。その隣のカーナンバー「22」の車両が、1971年のル・マン優勝車である。

ポルシェがル・マンで再び勝利を挙げたのは1976年である。ターボ時代が始まろうとしていた時期で、ポルシェもターボマシンの936でレースに挑んだ。1.4の係数がかけられるため、3リッターに収まるように排気量は2142ccとされた。この年はマルティーニ・レーシングから出走したジャッキー・イクスが危なげない勝利を収める。翌年はイクスの乗った3号車が4時間目にリタイアしたが、彼は4号車に乗り換えて連勝に貢献した。

1977年のル・マン24時間レースの様子。当時のポルシェ936のライバルは、地元フランスのルノーアルピーヌ442だった。

1980年代はポルシェがル・マンを席巻する。1981年から7連勝を達成したのだ。立役者となったのは、1982年にデビューした956である。この年から世界耐久選手権がグループC規格で戦われることになった。排気量は無制限だが、燃料使用量に厳しい制限が設けられたのが特徴である。速さだけでなく、燃費性能がレースを左右するわけだ。規定変更に対応して作られたプロトタイプレーシングカーが956である。

ポルシェは前年に優勝した936に搭載されていた935/76型エンジンを採用した。1978年から使われていたヘッド水冷方式のDOHCエンジンで、十分な経験が積み重ねられて信頼性は高い。ハイパワーを武器にライバルに対するリードを広げると、過給圧を下げて燃費走行に切り替え、隊列を組んで走行する余裕すら見せた。カーナンバー1番から3番までが順に1位から3位を占め、4位と5位には935が入る完勝だった。

1982年のル・マンで優勝したジャッキー・イクス、デレック・ベル組のポルシェ956。同車とその改良モデルである962Cにより、ポルシェはル・マンで6勝を挙げた。

翌年は8位までを956が独占し、向かうところ敵なしの強さを見せつける。1985年からは後継モデルの962Cも投入され、万全の体制を築いた。1988年に連勝記録は途切れるものの、1990年代に入っても多くのプライベートチームが962Cで参戦し、上位入賞を果たしている。1994年に優勝した962LMは、962Cの公道バージョンだった。1980年代を席巻したマシンは、長い間トップレベルの性能を保っていたのだ。

レギュレーションが変わっても、ポルシェは常にル・マンの頂点に君臨し続けた。ポルシェの強さは、ワークスチームだけによるものではない。ワークスマシンと同等の性能を持つ956がプライベートチームに供給され、ロードゴーイングカーの911で走ったアマチュアドライバーも多い。世界最高峰のレースを楽しむことができる市販車があるからこそ、ポルシェは無敵なのだ。

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サルト・サーキット

ル・マン市はパリの南西に位置し、TGVで1時間ほどの距離にある。市街地から離れると田園地帯が広がっていて、1906年にフランスGP開催を目的とした公道コースが設定された。

1923年から始まったル・マン24時間レースでは、公道と常設コースを組み合わせたサルト・サーキットが使用されている。当初は1周17km以上だったが、レイアウト変更が繰り返されて現在では13.629kmになっている。

最も特徴的なのは、テルトルルージュを抜けると現れるユノディエールだ。かつては6kmのストレートだったが、1990年からは安全性を考慮して2カ所のシケインが設けられている。

24時間レースが開催されている間は移動遊園地や飲食店が開かれ、メインスタンド周辺はお祭りのような雰囲気となる。ヨーロッパ各地からモータースポーツファンがクルマで訪れ、テント生活をしながらレースを楽しんでいる。

2016年のル・マン24時間レースと、サルト・サーキットの様子。

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ポルシェ356

1931年の創業以来、車両設計などを請け負っていたポルシェ社は、第2次大戦後にスポーツカーメーカーとして再出発する。最初の製品が356だ。車名には開発コードナンバーがそのまま使われている。

1948年にプロトタイプが完成し、レースで好成績を挙げる。エンジンはフォルクスワーゲン用の1131cc空冷水平対向4気筒を使い、圧縮比向上などのチューンを施して出力アップを図っていた。

製品として販売されるようになったのは、1950年からである。翌年のル・マンを走ったのは、エンジン出力を向上させた356SLだった。デビュー戦でクラス優勝した快挙が評判となり、ポルシェの名声は高まっていく。

エンジン排気量は次第に拡大され、ボディーにも小変更が繰り返された。クーペだけでなく、カブリオレやスピードスターなどもラインナップされている。モデル寿命は長く、1965年まで製造されて911にバトンタッチした。

1954年式ポルシェ356クーペ。

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ジャッキー・イクス

ジャッキー・イクスは1945年にベルギーで生まれた。10代で二輪レースを始め、1960年代中頃から四輪に転向する。1967年にF2ヨーロッパチャンピオンになり、F1デビューを果たした。

F1ではフェラーリやブラバムなどのチームで走り、8回の優勝を記録している。並行して耐久レースにも参戦していて、1966年からル・マンに出場するようになった。

1969年のレースでは、ル・マン式スタートでゆっくり歩いて最後尾からスタートしたことが話題となった。安全のためにとった行動だが、当時はスタンドプレーではないかと批判する声もあった。この年はフォードGT40で優勝している。

1976年にはポルシェ936でル・マンに参戦して優勝を果たす。1982年に当時の最多勝記録となる6勝目を記録。1985年までル・マンを走り、1991年にはスーパーバイザーとしてマツダを初優勝に導いた。

ル・マンで6度の優勝を果たしたジャッキー・イクス(中央)。写真はミラージュから参戦した1975年の時のもので、隣でシャンパンファイトに興じるのはコンビを組んだデレック・ベルである。

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[ガズー編集部]