あのメーカーの創始者はハイブリッド車の発明者?! クルマ界に大きな貢献をしたフェルディナント・ポルシェ博士

2000年に選定された「カー・オブ・ザ・センチュリー」エンジニア部門において、20世紀最高の自動車設計者に認定されたフェルディナント・ポルシェ博士。その名前からわかるように、ドイツのスポーツカーメーカー「ポルシェ」の創設者です。

しかし、ポルシェ博士の功績は、スポーツカー開発に留まりません。ドイツにおける大衆車やレーシングカーの開発など、数々の自動車事業に関わっただけでなく、第二次世界大戦時には、軍に協力する形で軍用車や戦車のデザインも手がけ、戦後は批判の材料にされたことも……。

今回は、そんなポルシェ博士の生涯と功績をご紹介します。

1902年にハイブリッド車を開発!

ポルシェ博士は、1875年9月3日にオーストリア=ハンガリー帝国のマッフェルスドルフ(現在はチェコ共和国内)にある小さな村で、ブリキ細工職人の第3子として生まれます。若いころから父親の仕事を手伝いながら電気に興味を持ち、独学で実験を行うなど単なる職人に留まらない好奇心を見せていたそうです。

その電気好きが高じて、電気機械メーカーでキャリアをスタート。5年後の1898年には、オーストリアの自動車メーカーである「ヤーコプ・ローナー」に引き抜かれ、そこで「ローナーポルシェ」を開発します。ローナーポルシェは、1900年4月14日にパリ万国博覧会で一般公開された電気自動車で、車輪のハブにモーターを搭載したインホイールモーターの先駆とも言われています。

インホイールモーターを搭載するローナーポルシェ
インホイールモーターを搭載するローナーポルシェ

さらに、1902年にはオーストリア=ハンガリー帝国陸軍の要請で、ローナーポルシェを改良し、発電用のエンジンを搭載しました。現在のハイブリッド車と同等のシステムが、100年以上も前に生まれていたのです。ポルシェ博士は、このクルマを運転して演習に参加し、当時皇太子だったフランツ・フェルディナンドを乗せたと言われています。

航空機用の水平対向エンジンを手がける

1909年には、アウストロ・ダイムラーの自動車メーカー「アウストロ・ダイムラー」に移籍し、そこで航空機向けの水平対向エンジンの開発を手がけます。後にポルシェの代名詞となる水平対向エンジンの原型とも言えるものでしょう。

1914年7月に第一次世界大戦が始まると、ポルシェ博士は軍用トラクターなどの開発を行いましたが、オーストリア=ハンガリー帝国が大戦に敗れ解体されると、今度は生活に窮した庶民を見て、価格や維持費の安い小型車の開発を考えるようになります。

また、このころからモータースポーツにも積極的にポルシェ博士が中心となって開発した車両で参加しますが、重役からは資金がかかりすぎると不評で、ドライバーの事故死をきっかけに会社がレースを禁止。怒ったポルシェ博士は、辞表を叩きつけてそのまま辞めてしまいます。

タルガ・フローリオに参戦するポルシェ博士設計のレーシングカー(1922年)
タルガ・フローリオに参戦するポルシェ博士設計のレーシングカー(1922年)

大衆車に思いを馳せて独立へ

1923年には「ダイムラー・モトーレン」に主任設計者として迎えられ、ドイツに移ります。この移籍直後から小型大衆車の開発に意欲を燃やしていきますが、1926年にダイムラーがベンツと合併し「ダイムラー・ベンツ」となると、同社の重鎮が敗戦後の不況を理由に猛反対。取締役会で大型高級車を中心に開発する方針が決定したため、ポルシェ博士は1928年に同社を辞職しました。

そしてオーストリアの「シュタイア」でクルマの設計を手掛けますが、すでに業績は傾きつつあり、アウストロ・ダイムラーに吸収されることが決定。「ケンカ別れした古巣には帰れない」と、1930年12月、ドイツ・シュトゥットガルトに設計とコンサルティングを行なう「ポルシェ設計事務所」を設立します。これが、のちの自動車メーカー、ポルシェの前身になるのです。

1932年には、ソヴィエト連邦に訪問しています。当時ソ連は、国産大衆自動車の開発に力を入れており、ヨシフ・スターリンに自動車や航空機、戦車、トラクターなどを開発する「国家設計家」という役職にならないかと誘われたとか。しかし、結局、ポルシェ博士が夢見ていた「安価で高性能な小型車」「技術的可能性の限界を極めたレーシングカー」「農業用トラクター」の3つの車両うち、大衆車とレーシングカーの開発は難しいだろうと断わります。

ドイツ帰国後は、夢を実現するため、シュライヒャー内閣に自動車振興のための覚書を提出しますが、あまり注目はされなかったそうです。

ヒトラーの依頼で大衆車開発の道が開かれるが…

しかし、変化はすぐに訪れました。スターリンと同じく20世紀を代表する独裁者のひとり、アドルフ・ヒトラーが、クルマの大衆化に注目したのです。

1933年1月にドイツの政権を獲ったヒトラーは、高速道路と国民車の必要性を感じており、政権を樹立した直後の1933年5月に、ポルシェ博士を呼び出し会談しました。そこで、ポルシェ博士は、ヒトラーに国民車の設計を依頼されます。そして、大衆車の概要をまとめ、1934年のドイツの自動車ショーで国民車構想を発表しました。これがのちの「フォルクスワーゲン」で、1936年には試作車を完成させます。

のちのフォルクスワーゲンとなるクルマのプロトタイプ(1937年)
のちのフォルクスワーゲンとなるクルマのプロトタイプ(1937年)

1938年に、量産型のプロトタイプが完成し、ヒトラーにより「KdF(カーディーエフ)ワーゲン」と命名。量産するための工業都市建設まで開始され、ポルシェ博士の夢であった「安価で高性能な小型車」の実現が目前にまで迫ります。

しかし、ここで第二次世界大戦が勃発。この戦争で、本来国民の大衆車となるはずだったKdFワーゲンは軍用車として使用され、ポルシェ博士自身も同車をベースとした軍用車「キューベルワーゲン」「シュビムワーゲン」の設計・開発に関わります。

さらには戦車開発にも関わり、通称「ポルシェティーガー」と呼ばれる「VK4501(P)」の開発では、再び過去のハイブリッド車構想を持ち出しますが、結局採用はされず、一部が「エレファント重駆逐戦車」として運用さるに留まりました。さらに「超重量級戦車マウス」など、誇大妄想的な兵器の開発も考えていましたが、量産はされませんでした。

晩年になってようやく夢の実現を果たす

政治的にはヒトラーとの関わりはなかったポルシェ博士ですが、結果的に戦中のドイツに多大な貢献をしたとして、戦後は一時期、連合国に拘束されたことも。

疑いが晴れて解放されると、フランスから招待されて国民車構想計画についての意見を求められ、訪仏を決意。しかし、フランス滞在中に政変が起こり、「戦争中にフランス国民を搾取した」というまったく根拠のない理由により、親子ともども逮捕され、1945年12月から1年7カ月もの期間を刑務所の中で送ることになってしまいました。義理の息子のフェルディナント・ピエヒは、「このときの父の決意は生涯中で最大の不幸を招いた」とのちに語っています。

1947年8月、ようやく戦犯ではないとしてポルシェ博士は解放。同じころ、フォルクスワーゲンを生産するために建設された工業都市「KdFワーゲン市」は、爆撃などで街の大部分が破壊されていましたが、戦後フォルクスワーゲン工場を管理する立場に立ったイギリス軍により復興され、ヴォルフスブルク市と名前が改められました。

現在でもフォルクスワーゲン本拠地となっている同地では、「ビートル=カブトムシ」の愛称で親しまれるようになるフォルクスワーゲン「タイプ1」の生産を戦後直後から開始。また、1948年9月には、息子のフェリー・ポルシェにより、ポルシェ社として初の量産車、ポルシェ「356」の生産が開始されました。

ポルシェの量産第一号車となった「356」
ポルシェの量産第一号車となった「356」

大衆車の登場を夢のひとつとして技術者生活を続けていたポルシェ博士は、晩年になってようやくその夢の実現を見ることになり、1951年1月30日に75歳でその生涯を閉じます。その大きな功績から、1987年にはアメリカの自動車殿堂に登録。今も、ポルシェの名を冠したスポーツカーは、世界の人々から愛されています。

(参考文献)
『ポルシェ博士とヒトラー―ハプスブルク家の遺産』(グランプリ出版)折口透著
『ポルシェの生涯―その時代とクルマ』(グランプリ出版)三石善吉著
『重突撃砲フェルディナント ソ連軍を震撼させたポルシェ博士のモンスター兵器』(大日本絵画)
『ポルシェ 世界自動車図鑑』(ネコ・パブリッシング)

(取材・文:斎藤雅道 写真:Porsche AG 編集:木谷宗義+ノオト)

[ガズー編集部]

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