『ついに"私のクラウン"』―憧れを、より多くの人の感動・幸せに― [クラウン 山本卓 チーフエンジニア](1/2)

クラウンといえば、まぎれもなくトヨタのフラッグシップ。1955年に初代クラウンが発売されて以来、トヨタの最上級モデルのクルマとしての地位を長く担ってきた。また、有名な「いつかはクラウン」(1983年 第7代クラウン)のキャッチコピーにも象徴されるように、生涯に一度は乗ってみたい憧れのクルマとして、ずっと国民から愛されてきた。

そんなクルマの開発責任者を任されることは、大変な名誉である一方で、ものすごいプレッシャーに違いない。ましてやリーマンショック以降、長引く不況の中、世界各国で自動車のダウンサイジングが加速し、クラウンの市場にもその潮流は押し寄せている。さらにはお客様の環境志向、低燃費志向の高まりとともに、アクアやプリウスといったハイブリッドカーが台頭し、市場を席巻している。そんな環境下での新型クラウンの開発にはさぞや迷いや気苦労が多かったのではないだろうか?そして、今後、高級車市場でのレクサスとの差別化はどう考えていくのだろうか?

そんな苦労話を聞くべく、新型(第14代)クラウンのチーフエンジニアを務めた山本卓氏を訪ねた。
しかし、こちらの期待(?)に反して、山本チーフエンジニアからは「苦労や迷いよりも、『自分にしかできないクラウンを創るんだ』というワクワクするようなやり甲斐の方が大きかった」という自信に満ちた言葉が返ってきた。

クラウンの歴史と伝統を継承する

山本 卓(やまもと・たかし)
山本 卓(やまもと・たかし)
名古屋市出身。京都大学工学部大学院修了。1982年トヨタ自動車工業に入社。ボデー設計を経て、1984年から製品企画部門に異動。初代LS400(セルシオ)、2代目LS400の開発に従事。1997年からは第11代クラウン。第12代クラウン(ゼロクラウン)では開発主査の一人として、初期の企画から開発を担当。2003年から初代マークX、05年から3代目アベンシスのチーフエンジニアを務めた後、09年からクラウンのチーフエンジニアとして、第13代クラウンのマイナーチェンジ、そして、新型クラウンのフルモデルチェンジを担当。趣味はゴルフ、旅行。
第12代 クラウン (ZERO クラウン)

最初の配属はボデー設計で、初代FFセリカのボデー開発を担当しました。大学では金属工学を専攻していたので、機械工学などと違って製図をする機会がなかったので、図面の引き方は会社に入ってから勉強しました。

そして、入社3年目に製品企画の部署に異動し、初代LS400(日本ではセルシオ)の開発チームに放り込まれました。いまでこそレクサスの開発チームは大所帯ですが、当時は4、5人の少人数のチーム。「ベンツやBMW、ジャガーなどと肩を並べる世界に通用する日本発の高級車を開発する」という高い志はあったものの、では一体、どうしたらいいのか?前例のない全くゼロからの開発だっただけに、まさに、暗中模索の状態でした。社内にも「ベンツやBMWに負けないクルマを開発するなんて無理に決まっている」という雰囲気が漂っていました。

誤解を恐れずに申し上げるならば、このときの初代LS400の開発に比べれば、私が年をとったこともあり、第14代クラウンの開発は迷いや苦労は感じず、むしろ楽しめました。

なぜなら、クラウンには50年以上の歴史があり、後ろを振り返れば、13代にわたるクラウンの伝統があるのです。

そこに立ち返れば、過去にどんなことをやってきたかの蓄積がある。その蓄積を辿っていけば過去の苦労は判る。もちろんそこからジャンプアップしないといけないわけですが、全くゼロの足場のないところからジャンプアップするわけではありません。

さらに初代LS400は世界の高級車市場を相手に打って出たクルマですから、世界各国の道を走る。どんな人が乗って、どんな気候、環境の下でどんな使い方をされるのかは各国でバラバラです。さらに当時はレクサスの販売店はありません。海外にはトラックとカローラしか販売したことのない販売店だけでした。だからラグジュアリーの市場なんて、まったくわからなかったわけです。

それに対して、クラウンは純粋に日本のお客様、日本の道を考えて開発しています。

そして、クラウンには長年にわたりご愛用いただいたお客様がいらっしゃいますし、クラウンというクルマや市場を熟知し、販売してきた経験豊富な販売店があるわけです。いわば彼らは開発のアドバイザー。心強い相談相手なのです。
また、私自身、第11代クラウンの開発、そして、第12代のゼロクラウンの開発では加藤光久チーフエンジニア(現 副社長)の下で開発主査として初期の企画段階から開発に携わってきました。ですから「伝統と革新」により進化してきたクラウンは私にとってある意味、帰ってきた実家のようなものだったのです。

山本 卓(やまもと・たかし)
山本 卓(やまもと・たかし)
名古屋市出身。京都大学工学部大学院修了。1982年トヨタ自動車工業に入社。ボデー設計を経て、1984年から製品企画部門に異動。初代LS400(セルシオ)、2代目LS400の開発に従事。1997年からは第11代クラウン。第12代クラウン(ゼロクラウン)では開発主査の一人として、初期の企画から開発を担当。2003年から初代マークX、05年から3代目アベンシスのチーフエンジニアを務めた後、09年からクラウンのチーフエンジニアとして、第13代クラウンのマイナーチェンジ、そして、新型クラウンのフルモデルチェンジを担当。趣味はゴルフ、旅行。
第12代 クラウン (ZERO クラウン)

日本のお客様に愛される“真摯なクルマ”

もちろんクラウンに対する危機感はありました。第13代クラウンは2008年2月の発売当初は爆発的に売れましたが、その年の終わりに起こったリーマンショックを機に、その販売はすとーんと失速していました。
2009年1月にクラウンのチーフエンジニアを任されて、最初に取り組んだことは、
当時のクラウンの課題の分析と「次のクラウンに求められるものは何か?」を整理することでした。
そこで商品企画部の中にクラウンチームを作ってもらい、様々なデータを収集し、分析しました。また、社内のクラウンユーザーや全国の販売店を回り、クラウンに対する不満と次の開発への期待といった生の声を集めました。

クラウン開発の大先輩にあたる渡邉浩之技監(9代、10代モデルのチーフエンジニア)にお話を伺いにいったときには、「新型クラウンが発売される4年後の2012年の日本はどんな世の中になっているのか?を考えてみなさい。今までのように少し脂ぎった時代から、もっと清らかで清楚な、環境に優しい時代になっているはずだ。その時代にあったクルマを目指しなさい」というアドバイスをいただきました。当時はリーマンショックこそありましたが、まだそれでも経済は余裕がありました。トヨタの業績は右肩上がりで、販売台数世界一を達成し、1,000万台を目指すという時代でしたから、とても貴重な気付きを頂戴しました。

そうしてまとめた新型クラウンのコンセプトが「新たなる革新」です。
これは何をいっているかというと「クラウンをもう一度、ゼロから見つめ直しましょう。クラウンとは何か?というクラウンの原点、コアに立ち返って考えてみる。そして、そこにいま求められているものを新しく付加して、再構築していく」ということです。

まずは原点回帰。クラウンというクルマは1955年、まだ戦後の傷が癒えない頃、国内メーカーの多くが海外との技術提携に活路を見出そうとしている中、トヨタ自動車の創業者である豊田喜一郎社長(当時)の「日本人の頭と腕で国産乗用車を産み出そう」という強い意思のもと、あくまで純国産技術にこだわって、初代チーフエンジニアの中村健也主査が開発したクルマです。
以来、半世紀以上に渡り、日本のお客様に愛され、支えられてきました。この間、クラウンは日本の道に育てられた高級車として絶え間ない進化を続け、大きく変化しました。しかし、その根底に脈々と受け継がれている精神は普遍です。

それは「日本人のお客様を第一に考え、使いやすく親しみやすいクルマである」ことです。
日本を代表するこのクルマは「日本のお客様に愛される“真摯なクルマ”」でなければいけません。ただ華美で壮麗なだけではいけない。クラウンを愛するお客様に対して、環境や安心、安全といった日本社会を取り巻く様々な問題に対して、きちんと向き合った“真摯なクルマ”でなければいけません。

この開発思想はレクサスとの大きな違いでもあります。レクサスは世界を相手に、世界最高峰を目指すクルマです。ですから、どんどん最新装備を入れていかないといけない。意匠やインテリアデザインなどにおいても独自のフィロソフィーに基づいて厳格に縛られています。一方、クラウンは、開発の軸足を日本に置き、日本人のために日本で開発するクルマです。純粋に日本のお客様、クラウンのお客様の気質に合わせて開発を進める。だから、ちょっと浪花節でいいんです。いくらかっこ良くても使いにくかったら、それは必要ない。ちゃんと実利をとりながら高級を追求していくのがクラウンなんです。