片岡龍也 ドライバーズコラム 第1回 プロのレーシングドライバーまでの道程

皆さま、こんにちは!レーシングドライバーの片岡龍也です!
記念すべき初投稿ですので、今回はどのようにレーシングドライバーという職業に辿り着いたのかを書いていきたいと思います。

楽しいデビュー

13歳の12月、レーシングカートからモータースポーツのキャリアをスタートしました。
実は、小学4年生の頃に本格的な4WDオフロードのラジコンをやっていたことがこの先のレース人生へ大きな影響を与えていたと思います。

(13歳、カートデビュー時)

4WDオフロードのラジコンは、全日本選手権の予選で敗退してしまうくらいのレベルではありましたが、レースの基本のアウトインアウトやレースでの駆け引き、セッティングやメンタルなど全ての基本がここにあったと思います。

そのような基本的な感覚と理論が身についていたのか、レーシングカートを初めて乗った時からライン取りなどは既に出来ていたように記憶しています。

(ラジコン大会にて、両親、妹と)

地元のローカルレースに参戦を始めてから半年くらいで優勝するようになり、翌年から地方選手権、その翌年には全日本カート選手権にステップアップ。順調のようですが全日本で大きな壁にぶち当たりました。

1年目の全日本は、参加しているだけで全く上位に絡めませんでした。少々の自信もあったので、かなりがっかりしたのを覚えています。

翌年から少し体制を変更。お世話になっていたチームの社長が、自ら立ち上がり指導してくれました。それまではセッティングなどをガチャガチャ弄っていましたが、走りに集中するために弄る事を一切やめて、走り方だけで状況に対応するようにしました。そうすると不思議なことに成績も上がり始め、年間ランキングが9位にまで成長したのです。

現実的な大きな問題~プロへの第一歩

ここまでは両親からの全面的なバックアップのなかでレース活動をしておりましたが、一般家庭での限界に達していたこともあり、活動継続はかなり厳しい状況だったところをチームの社長が両親に「任せてください」の一言で僕を引き受けてくれたのです。

更に、ヤマハ発動機からシャーシやパーツのサポートも受けられるように段取りもして頂きヤマハチームのサテライトというチーム体制で3年目の全日本をスタートしました。結果はランキング1位で迎えた最終戦で逆転されてしまいチャンピオンを取り逃がす苦い経験をしましたが、今思えばプロドライバーとしての第一歩であったことは間違いないと思います。

そして翌年の98年からは、ヤマハワークスチームとドライバー契約を結びました。92年の冬にカートを始めた頃からは全く想像のつかいない事態です。契約金を貰える本物のプロになったと思いました。
ヤマハワークスとして、98年はランキング6位でしたが、99年2000年と2年連続で全日本カート選手権FSAクラスのシリーズチャンピオンを獲得します。

(1999年、ヤマハワークス1年目)
(2000年、全日本カート選手権FSAクラスのシリーズチャンピオン)

2000年のシーズン中には、僕の運命を大きく左右するFTRS(フォーミュラトヨタレーシングスクール)を受講しました。

悩んでいた20歳

実は、2000年のシーズンでレースを辞めるつもりでした。その理由は、年齢が20歳になり同世代のドライバーは4輪レースにステップアップしている中で、このままカートを続けるのか?それとも大きな借金のリスクを背負って4輪レースにチャレンジするのか?どちらも僕にはピンときませんでした。ですので、辞めて別の道を探そうと思っていた時のFTRSの受講は、本当に運命を左右するものだったのです。
4日間の受講と最終選考会で掴み取ったスカラシップにより、2001年からフォーミュラトヨタシリーズに参戦することが出来ました。これが4輪ドライバーとしての第一歩になります。

(フォーミュラトヨタ時代、レーシングドライバー平中克幸選手と)

一緒にスカラシップに受かったのが平中克幸ですが、この先ずっとライバルになることをこの時は知りませんでした(笑)。

ひとまず4輪に辿り着いたところで今回は終了。また次のコラムでお会いしましょう!

[ガズー編集部]