<自動車人物伝>ヘンリー・フォード(1896年)

よくわかる自動車歴史館 第101話

エジソンの激励で自信を深める

「今日私たちが自動車と呼んでいるものの実現を早めた点で、エジソンはもっと功績を認められなければならない」(『自動車王フォードが語るエジソン成功の法則』)

ヘンリー・フォードは、自分のクルマ作りの方向性が正しいものであると確信させたのはトーマス・エジソンの言葉だったと語っている。2人が初めて出会ったのは、1896年8月11日だった。ニューヨークでエジソン電気会社の代表者会議が開かれ、親睦を深めるための夕食会にフォードも出席していたのだ。

“発明王”として知られるトーマス・エジソン(左)とヘンリー・フォード(右)。フォードがエジソンの会社を辞めてからも、2人の交流は長く続いた。

会食中、乗り物用蓄電池の充電が話題になった。電気事業者にとって大きなビジネスチャンスになるというのだ。当時は蒸気自動車、ガソリン自動車、電気自動車が混在する状況だったが、その場では電気自動車の優位を前提に議論が進行した。フォードは黙って聞いていたが、彼がガソリン自動車を作ったことを知ると、エジソンが興味を示す。4ストロークなのか、点火はどうするのかなどと矢継ぎ早に質問し、フォードが的確な説明を返すと、わが意を得たりというようにテーブルをたたいて彼を激励した。

エジソンの見解では、電気自動車は発電所の近くでなければ機能せず、バッテリーが重いのも欠陥だ。蒸気自動車はボイラーと火元を運ばなければならないので論外というしかない。フォードのガソリン自動車は自前の動力装置を積んでおり、高い可能性を秘めている。フォードにはまだ迷いがあったが、電気に関して世界一の知識を持っているエジソンが、モーターよりもガソリンエンジンのほうが動力として適していると断言するのだ。天才からお墨付きを与えられ、彼は自分の考えが正しいことを確信した。

フォードは1896年7月4日に、自宅の製作所で最初の試作車であるクォドリシクルを完成させている。

子供の頃から機械いじりが好きだったフォードは、16歳でディアボーンの生家を出てデトロイトに行く。機械工となり、工場を渡り歩きながら腕を磨いていった。1891年にはエジソン電気会社に入社し、2年後には技師長に昇進する。電気の技術に精通して将来を嘱望されたが、彼にはほかにもっとやりたいことがあった。ガソリン自動車の開発である。仕事から帰ると自宅の片隅を改造した作業場で研究を続け、1896年に第1号車が完成した。自転車のタイヤを4つ付けた簡易な自動車で、クォドリシクルと名付けられた。

ヘンリー・フォードは1863年7月30日にミシガン州ディアボーンで誕生。若い頃はデトロイトで機械工として働き、技術を習得していった。(右の写真は1883年、20歳当時のもの)

3度目の起業で成功をおさめる

エジソンの助言を受け、フォードは改良モデルの開発にとりかかる。動力伝達の方法や電気関係の装備について、彼らは有益な議論を繰り返した。もともとはスターターと発電機を一体化する計画だったが、エジソンの意見を受け入れて別々のユニットに分けた。2人はプライベートでも親交を深め、互いに尊重し合う関係になる。しかし1899年、フォードはエジソン電気会社を辞めた。デトロイト自動車会社を設立し、本格的に自動車づくりを始めたのである。

デトロイトの実業家たちから資金の提供を受け、自動車の生産が始まる。しかし、それはフォードの理想とはほど遠いものだった。彼は農民たちに安価で使い勝手のいい乗り物を提供したいと考えていたのだが、その頃はよほどの金持ちでなければ自動車には手を出せなかった。できあがった製品は高価格であっただけでなく、性能も満足できるものではない。めぼしい実績を残せぬまま、最初の会社は1901年に解散してしまった。

次にフォードは、クルマを宣伝するためにモータースポーツでの勝利を利用しようと考えた。デトロイトで行われたレースに彼自身が出場して優勝を果たすと、もくろみどおり再び出資者が現れた。ヘンリー・フォード・カンパニーが設立され、新たな事業が始まる。しかし、すぐにフォードと出資者たちとの考え方の違いが露呈した。フォードはここでも大衆車の製造を目指したが、誰もその理想を理解しなかった。高価格なモデルを売って手っ取り早く利益を得ようと考えたのである。フォードは会社を去り、ヘンリー・リーランドが技師長を継いだ。会社名はキャデラック社に改められ、後にゼネラルモーターズ(GM)に合流していくことになる。

フォードがレースで使用したレーシングカーのSweepstakes(スウィープステークス)。フォードのモータースポーツ活動100周年を記念して、2001年に走行可能な状態に復元された。

それでもフォードはあきらめなかった。大排気量のレーシングカー999で好成績を上げると、今度は石炭業者のマルコムソンや機械メーカーのダッジ兄弟などから資金が集まった。1903年、彼はフォード・モーター・カンパニーを設立する。初めて作ったA型がキャデラック社のモデルとよく似ていたのは、どちらもフォードが設計したからだ。彼は改良を重ねるたびにモデル名をB型、C型と順に名づけていった。

大排気量レーシングカーの999。1156cu.in(約18.9リッター)の4気筒エンジンを搭載していた。
1903年に誕生したフォードA型。フォード・モーター・カンパニーの量産第1号車となった。

ここでも、やはり出資者たちと意見の相違が明らかになっていくが、フォードは前回の経験から、周到に事を進めていた。利益が出ると自分の出資を増やしていき、やがて株式の大半を押さえたのだ。ワンマン体制を築き、フォードの意思が会社の方針となる状況を作っていった。彼の陣頭指揮で作られた小型車のN型がヒットすると、豊富な資金を得ていよいよ計画を実行する条件が整った。1908年にデビューしたT型が、自動車の歴史を変えることになる。

工場の生産ラインを流れるフォードT型。19年にわたり、1500万7033台が生産された。

企業と労働者がともに繁栄するという理想

フォードの構想は、単に製品としての自動車だけを対象にしていたのではない。産業構造を変え、社会を変革することまでが視野に入っていた。彼は産業の発展が人々に自由をもたらし、企業の成長とともに労働者も豊かになると考えていた。そして、フォード社こそがその理念を現実化したという強烈な自負を持っていた。

1926年に書かれた著書『藁(わら)のハンドル』では、誇らしげにこれまでの実績を回顧している。すでに1300万台以上のT型フォードが生産され、フォード社は20万人以上の従業員を抱える大企業に発展していた。関連会社も含めると60万人もの人々が恩恵を受け、家族を入れればフォード社が300万人を養っている計算だ。成功と繁栄をもたらしたのは、「小型で、丈夫で、シンプルな自動車を安価につくり、しかも、その製造にあたって高賃金を支払おうというアイデア」だったという。

フォード社の真の発展は1914年から始まったとも記している。この年、それまで2ドルあまりだった労働者の最低賃金を5ドルに引き上げた。豊かになった従業員は、購買力が高まることで顧客としても有力な存在になっていく。生産が拡大すると価格が低下し、製品を購入できる層がさらに増加する。自動車生産が起爆剤となって影響はアメリカ社会全体に波及し、国全体が豊かになっていったというのだ。

フォードは工場における労働条件の改善に努めた。1914年には22歳以上のノンサラリー労働者の日給を5ドルに引き上げるとともに、1日の労働時間を8時間に短縮。1926年には週5日制を導入し、1929年には日給を7ドルに賃上げした。

『藁のハンドル』には、フォードの強烈な自負心を反映した主張がちりばめられている。
「私たちが繁栄しているから、自動車を持てたのではない。私たちは、自動車を持っているからこそ繁栄しているのである」
「わが国の全般的な繁栄は、農作物の収穫高とは関係なく、自動車の所有台数に正比例している」
「一日数セントのために、長時間働く中国の苦力より、自分の家や自動車を持っているアメリカの労働者のほうが幸福である。一方は奴隷であり、他方は自由人である」

生産の拡大が需要を呼び起こし、需要に応えるために企業が成長する。労働者には適正な賃金が支払われ、消費者として巨大な存在となっていく。すべてが好循環で、フォードの前には無限の可能性が広がっているように見えた。しかし、実際には危機が目前に迫っていた。自動車はすでにアメリカの隅々にまで行き渡り、市場は飽和しつつあった。旧態依然としたT型は、大衆の欲望に応えられなくなっていく。毎年モデルチェンジを繰り返して新奇さを強調するシボレーが、急速に競争力を高めていた。

長年にわたりT型を作り続けてきたフォードに対し、ゼネラルモーターズは毎年のようにモデルチェンジを繰り返し、ユーザーの注目を集める方法をとった。写真は1928年式シボレー・ナショナルAB型。

1927年5月26日、突然T型の生産が終了する。次期モデルは開発されておらず、半年後にA型の製造が開始されるまで工場は動かなかった。そして1929年、大恐慌が自動車産業を手ひどく打ちのめした。フォードは著書の中で「管理さえ適切にやれば、『不況期』を迎えねばならない理由は毛頭ない」と宣言していたが、市場の論理は冷徹だった。

1918年にフォードは息子のエドセルに社長職を譲っていたが、実権は手放さなかった。早くからT型に代わるモデルを作るよう進言していたエドセルを一顧だにせず、己の信念を曲げなかったことが傷口を広げた。彼はボクサー出身のハリー・ベネットを総務部長に雇って労働組合に対抗し、融和的だった息子を批判した。しかし、経営者と労働者が鋭く対立すれば現場は混乱する。生産性の低下は誰の目にも明らかだった。

1943年、エドセルが早世するとフォードは社長に復帰したが、2年後に引退して孫のヘンリー・フォード2世に後を譲った。そして、その2年後の1947年、ヘンリー・フォードは故郷のディアボーンで83年の生涯を閉じた。彼は大量生産のシステムを作ることで、企業と労働者がともに繁栄の道を歩めると信じていた。素朴で素直な資本主義の申し子であり、進歩と成長を心から信じることのできる幸福な時代を生きた。

最初の試作車であるクォドリシクルと、1500万台目のT型とともに写真に収まるヘンリー・フォード。右は息子のエドセル・フォード。

関連トピックス

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トーマス・エジソン

ヘンリー・フォードより16歳年長で、彼の少年時代にはすでに発明王として名高かった。幼い頃から才能を発揮し、電信技師としてキャリアを開始した。

生涯で1300以上の発明を行っているが、特に電話機や蓄音機、白熱電灯の開発で名を残している。いずれも原理を発明したのは別の人間だが、エジソンはその原理から実用的な商品を作り上げる力で抜きんでていた。白熱電灯の商品化にあたっては、京都に人を派遣して竹からフィラメントを作ったという。

家電製品を製造するだけでなく、安定的に使用できるように発電事業にも手を伸ばした。興味は多岐にわたり、鉱山開発やゴムの研究もしている。晩年に取り組んだのは、死者との交信実験だった。

フォードはエジソンから受けた恩に報いるため、彼の研究所をディアボーンに移設して発明の跡をたどれるようにした。現在では、ヘンリー・フォード博物館も位置するグリーンフィールドビレッジの一部として保存展示されている。

トーマス・エジソン(左)とヘンリー・フォード(右)。

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ヘンリー・リーランド

フォードが去った後のヘンリー・フォード・カンパニーは、ヘンリー・リーランドを後任の技師長として起用した。東海岸の銃器工場で精密機械の生産技術を学んだリーランドは、オールズモビルからの依頼で、カーブドダッシュ用のエンジンを製造していた。

彼は銃器工場での経験から、精密な機械加工と部品の標準化に通じていた。彼の開発したキャデラックは1908年にロンドンへ送られ、部品の共通化を証明するテストを受ける。3台の車両をいったんバラバラに分解し、部品をごちゃ混ぜにしたうえで組み立て直し、正常に走れるかを試すという内容だ。キャデラックは見事にこのテストをクリアし、世界で初めて部品の共通化を達成した自動車となった。

リーランドは、電気式セルフスターターや点火の自動進角などといった画期的な技術を次々とモデルに取り入れていき、キャデラックは高級車としての名声を高めていった。

1909年、キャデラック社はGMの傘下となった。リーランドは1917年に退社し、新会社を起こしてリンカーンの製造を開始するが、1922年に会社ごとフォードに買収され、リンカーンは同社の高級車部門となった。キャデラックとリンカーンというアメリカを代表する2大高級車ブランドは、ともにリーランドによって生み出されたのだ。

ヘンリー・マーティン・リーランド

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ダッジ兄弟

リーランドに製造を依頼する以前にオールズモビルがカーブドダッシュに搭載していたエンジンは、ダッジ・ブラザース社の製品だった。この会社は、その名の通りジョンとホレイスのダッジ兄弟が起こしたもので、さまざまな自動車部品の製造を行っていた。

ダッジ兄弟はフォード・モーター・カンパニーに出資したことから、初期のフォード車の製造も請け負っていた。しかし、方針の対立から1914年になると関係を絶ち、独自に自動車の生産を開始する。

トラックを軍に供給するなど業績は順調だったが、1928年に新興のクライスラー社に買収され、その一部門となった。

クライスラーがフィアット傘下に入り、FCAに改組された現在もブランドは存続しており、チャレンジャー、チャージャー、バイパーなどが製造されている。

ダッジ兄弟。左が兄のジョン、右が弟のホレイス。

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[ガズ―編集部]