ホンダ3代目アコードと出会えてよかった。人とクルマを繋ぐ29歳オーガナイザーの密かな願い

  • ホンダ アコード

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「今は2台のアコードを交互に乗っています。」

そう語るのは、初めてのマイカーとして買った1986年式の3代目アコード(CA型)を、9年間乗り続けているという自美研さん29歳。

18歳の時に運転免許を取得し、ひょんなことがきっかけでアコードと出会い、その魅力にどっぷりハマってしまったという。

アコードに乗り始めてからは、人生が大きく変わったとのこと。いったい彼にどんな影響があったのでしょうか。

今回は、自美研さん×アコードのお話です。

――9年間もアコードに乗られているってすごいですね。なぜ2台のアコードを所有されているのですか?

実は、2台目は部品取り用でして、全く同じ86年式のEXL-Sのグレードを買ったんですよ。

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――早くもアコード愛を感じますが、部品取り用を購入したのはなぜだったんですか?

元々メインで乗っていたアコードの調子が悪くなった時、たまたま同じグレードの同じアコードを見つけたんです。

アコードのパーツって本当に見つからなくて、そろそろ部品取り用のクルマが必要かなと思い始めていた頃だったので購入したんです。

――でも結局、ナンバーを付けて運転できるようにしたんですね?

部品取り用として買ったアコードには、サンルーフが付いていたんですよ。

いつかサンルーフの付いているクルマか、オープンカーに乗ってみたいと思っていたのもあって、どうせならナンバーを付けちゃえって(笑)。それで乗れるようにしたんです。

――そんな気軽な感じだったんですね(笑)。そもそもアコードとはどういう出会いだったんですか?

最初は、先輩から別のクルマを譲り受ける話が進んでいたんですが、そのクルマが故障しちゃって、修理してくれる所を探さないといけなくなったんですよ。

ネットで調べているうちに、今ではアコードの主治医としてお世話になっている方のお店が出てきて、そこにアコードの中古車が掲載されていたんです。それがアコードとの出会いでした。

大学生の時はずっとマイカーが欲しくて、80年代のセダン車を探していたんですが、他にはないセダンでリトラクタブルヘッドライトという姿にひと目惚れをしてしまいました。それで実物を見せてもらって、購入は即決でした。

――80年台のデザインがやっぱり魅力的だったんですか?

そうですね。3代目のアコードが新車で販売されていた時代って、お金にゆとりがあったと思うんですよ。クルマがどんどん華々しくなっていった世代でもあって…。バブルが背景にあるっていう余裕をクルマから感じ取れて、すごく魅力的に映りました。

あと、いろいろなハイテク装備が出始めたのも80年代頃なんですよね。今のクルマの基礎ができたのって、この時のクルマたちのおかげなのかもとも思います。

新しい事をやってみようっていう、チャレンジ精神もアコードから感じられて、個人的にかなり好きになりました。

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――納車された日は今でも覚えていますか?

それはもう覚えています(笑)。アコードは試乗せずに購入したのですが、納車日にキャブ車という事実を知ったんです。

エンジンをかけるときにアクセルを踏んでエンジンをかけなくちゃいけないテクニックとか、インジェクションのクルマとは違うエンジンだということを、納車日に初めて知ったんですよ。

その日アコードで通学をしたんですが、大学から帰る時「本当に自分のクルマを手に入れたんだな」っていう実感がこみ上げてきて、感慨に耽っていたのも思い出深いですね。

――自美研さんがアコードに乗り始めて、変わったことって何かありますか?

言ってしまえば全てですね(笑)。アコードを買う前と後とでは、人生の方向が真逆になったと思っています。というのも、クルマを買ってからすぐ、クルマのイベントを主催するようになったんですよ。

アコードを買った当時、SNSで若い人を集めて開催されるクルマのイベントって、無かったんですよ。あったらごめんなさい。

なので、僕が主催者となって、SNSで人を募ってクルマのイベントを『自美研ミーティング』というイベント名で始めたんです。

  • 自美研ミーティング

――SNSで写真を見ましたが、すごい規模でやられてますよね!最初の頃は参加人数は少なかったんですか?

そうですね、始めた時の参加人数は20人くらいだったと思います。最初は、主に20代をターゲットにスタートしました。僕も『自動車美術研究室』という名前でSNSを始めたばかりで、同年代くらいの人にお声がけして、大学の友達も誘って、当時は公園の駐車場の片隅でやっていました。

――それが今では、何百人、何百台も来るイベントになっているって、本当にすごいです。

だんだん人数も増えてきて、富士スピードウェイのような大きい場所を貸し切ったこともあります。イベントの規模がどんどん大きく発展していきましたね。

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――ところで、なぜクルマのイベントを、ここまでずっと続けてこられたんですか?

表立って人前に立ちたいとかそういうタイプではなく、かといって今も目立ちたいとかは無いんですけど…。

主催者が誰だったか分からなくても良いから、とにかくクルマを通していろんな人と繋がれるイベントをやりたいって思ってたんです。

当初から現在までこのコンセプトはずっと変わってないんですよ。ステージイベントも無いですし、アワードイベントとかも無いです。年齢や車種、そういった縛りも全く無しで、本当に交流をメインにやりたくて、そうしたらみんなが賛同してくれたんです。

――自動車美術研究室はイベントを開催する目的で作ったんですか?

実は、最初は続けていこうとかも特には思ってはなくて、僕がブログを作ったり、Twitter(現:X)をやったり、自分が見たいものを好きにやってるだけという感じだったんです。こんなのがあったらいいなっていうのを、ただ自由にやっていたというか。

それと東日本大震災が起きたとき、僕は高校生で被災地の様子をテレビで見ていました。自分が生きている証じゃないですけど、自分が居たことによって人が繋がって、誰かの記憶に残ることをしたいなっていう思いが芽生え始めたんですよね。

――震災もイベントを開催するきっかけの一つだったということですね。9年間の間に行われたイベントの中で、特に印象的だったことを教えていただけますか?

毎回いろんなドラマがありますが、レストランで働いている友達がいて、そのレストランはコロナの影響でお客さんが来なくなってしまったそうで、経営が厳しいという話をある時聞いたんです。

「そこでイベントをやれば、その月だけでも収入が上がるんじゃないか」と思い、イベントを計画しました。友達の強い思いもあって、共同主催という形で、レストランの敷地内に入るだけの台数のクルマを入れて、チャリティのような形でお店に寄付をしたんです。

――自美研さんが当初思っていた「誰かの記憶に残ることをしたい」という願いを早速叶えちゃったわけですね!

自動車のイベントを開催することで、いろんな人を巻き込んで喜んでもらえるっていう経験が出来たことが、めちゃくちゃ嬉しかったです。それは今でも忘れられない出来事ですね。

最初はほぼ、自分の趣味でスタートした自動車美術研究室だったけど、社会貢献というか、誰かの助けになることもあるんだなって気付けました。

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――元を辿ると、アコードがマイカーになって自美研さんの人生を変えたってことですよね。

そうですね。アコードって僕の愛車ではあるんですけど、どちらかというと、みんなとの交流を手助けしてくれる大事なパートナーみたいな、今ではそんな存在かもしれないですね。

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――この先、アコードとやりたいことや予定などはあるんですか?

来年、3代目アコードの生誕40年を迎えるのと、イベントを始めてから10年目という節目の年となります。

人やクルマが、もっと広く繋がる年になって欲しいのと同時に、大々的に何かイベントができたら良いなとも思っています。

自動車美術研究室は今も尚、賛同してくれる友達や、来てくれる方もいらっしゃるので、体が動く限りずっと続けて行きたいです。遠い話ですが、最終的にはクルマの博物館を作りたいと思っているので、その夢が叶うまで続けられたら良いですよね。

自美研さんが大事にするイベントへの思想は、今後も人々の心を大きく動かすきっかけになっていくのではないでしょうか。

クルマの博物館を作るという夢に向かって、アコードと一緒に走る道中も、きっと素敵な出来事が待っていることと思います。アコードが展示されている博物館に行ける日を、筆者もとても楽しみにしています!

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(文:秦 悠陽)