日本グランプリ――そして伝説へ(1964年)
よくわかる 自動車歴史館 第32話
レースの勝利が売り上げを伸ばした
グランプリとは、国や地域で一番上位のレースを指す言葉だ。日本グランプリはわが国最高峰の自動車レースであり、現在ではF1世界選手権の中の1レースとして開催されている。しかし、始まった時はそうではなかった。1963年、前年にできたばかりの鈴鹿サーキットで開催された日本で初めての本格的な四輪レースが、第1回日本グランプリである。ホンダがF1に初参戦するのは翌年であり、フォーミュラカーはまだまだ一般の人々には縁の薄い存在だった。それどころか、自動車でレースをするということ自体が耳新しく聞こえた時代である。
国際スポーツカークラスにはロータスやフェラーリ、ポルシェなどが参加したが、ほとんどはツーリングカーのレースだった。自走してクルマをサーキットに持ち込み、ナンバーの付いたままレースに参加する者も多かった。自動車メーカーもモータースポーツの経験は浅く、手探り状態でのスタートだった。それでも2日間で20万人以上の観客を集め、自動車への関心が高まっていることを示した。
華々しい成績を収めたのはトヨタである。C-II、C-V、C-VIの3クラスで、それぞれパブリカ、コロナ、クラウンが優勝したのだ。これを受けてグランプリ優勝キャンペーンを展開し、技術の高さとクルマの優秀さをアピールした。販売成績は向上し、レースの勝利が商品としてのクルマの売れ行きに貢献することが証明された。翌年の第2回グランプリに向け、各メーカーは本気で開発に取り組むことになった。
中でも、目の色を変えたのはプリンス自動車の開発陣である。中島飛行機にルーツを持つ彼らは技術に絶対の自信を持っていたが、スカイラインとグロリアで参戦して惨敗を喫した。市販車そのままでは勝てないということを痛感し、エンジニアたちはレースに向けてクルマを仕立て直すべく努力を重ねた。
ファミリーカーに6気筒エンジンを押し込む
エンジンをチューニングし、1500ccクラスのスカイライン、2000ccクラスのグロリアはライバルたちを圧倒する性能を手に入れた。雪辱に燃えるエンジニアたちは、それで満足しなかった。GTクラスでも勝利を得ようと考えたのだ。しかし、そんなマシンはプリンス自動車のラインナップには存在しない。スカイラインの開発責任者だった桜井眞一郎は、シンプルな解決策を思いついた。スカイラインに、グロリアのエンジンを載せてしまえばいい。
スカイラインは“メンテナンスフリーのファミリーカー”というコンセプトで作られたクルマである。4気筒エンジンを搭載することを前提に設計されている。6気筒エンジンを載せるには、そもそも寸法が足りない。そこで採用されたのが、またしてもシンプルな手法だった。鼻先を20cm伸ばし、無理やり押し込んでしまったのだ。
バランスを考えてのものではないから、操縦性は悪化する。ボディー剛性が低下しているので、ステアリングを切ってもすぐには曲がらない。補強して剛性を確保すると、今度はリアのサスペンションが暴れる。なんとかそれも抑えこんで、パワフルな6気筒スカイラインを作り上げた。ホモロゲーションを得るために100台を手作りし、スカイラインGTが誕生した。
1964年5月2日から2日間、第2回日本グランプリが開催された。前年とはまったく様相が異なり、ほとんどの自動車メーカーが全力で勝利を目指して戦った。プリンスはツーリングカーのT-VとT-VIクラスで優位に立つ。1001cc〜2000ccで争われるGT-IIでも、圧勝が予想されていた。しかし、大会直前にその思惑は崩れ去ってしまう。式場壮吉が、ポルシェ904で参戦することがわかったのだ。
904は、ポルシェ初となるミドシップマシンである。公道でも走ることはできるが、もともとはGT2クラスのレースに参戦するために作られたモデルだ。180馬力の水平対向4気筒エンジンを積み、車重はわずかに650kg。対するスカイラインは日本初の3連装ウェーバーキャブを備えるものの、最高出力は125馬力で、車重は1トンを超える。しょせんファミリーカーがベースであり、生粋のレーシングマシン相手では到底勝ち目はない。
スカイラインGTとポルシェ904の名勝負
予選2日目に、アクシデントが発生する。ポルシェ904が1コーナーでクラッシュし、ノーズが大破したのだ。ペダルを調整するケーブルが切れ、ブレーキがきかないままガードレールに激突した。FRP製のボディーは無残に破れ、原形をとどめない。決勝での走行は不可能と思われたが、徹夜の作業でボディーを貼りあわせ、ギリギリでグリッドにつくことができた。
3番目のポジションからスタートした904は瞬発力を生かして1コーナーでトップに立ち、生沢 徹の乗るカーナンバー41のスカイラインGTが必死に追いすがった。周回を重ねても、2台の差は思ったほどには広がらない。904は外面は修復できたものの、クラッシュによるシャシーの損傷は完全には直っておらず、直進すらできない状態だったのだ。
そして7周目、大事件が発生する。ホームストレートに戻ってきた生沢のスカイラインGTが、後ろにポルシェ904を従えていたのだ。国産車が世界最先端のスポーツカーを抜いたという光景を目の当たりにし、グランドスタンドの観客は総立ちになった。次の周で式場は生沢を抜き返し、最終的には大差をつけて優勝した。それでも、一瞬でもスカイラインがポルシェを抜いたという事実は観客の脳裏に焼き付けられ、伝説となって語り継がれていくことになる。
圧倒的な性能差にもかかわらずスカイラインがポルシェの前に出たことは、さまざまな臆測を呼んだ。いわゆる密約説である。レーシングドライバーたちはライバルでありつつも仲間意識を持っていて、生沢、式場を含め、浮谷東次郎、杉江博愛(後の徳大寺有恒)らは仲のよい友人だった。生沢に頼まれて式場がわざと先に行かせたという話がまことしやかにささやかれた。実際、レース前にそんな会話があったことは両人が認めている。しかし、それはただの冗談で、実際には周回遅れのトライアンフTR-4を抜きあぐねていた式場のスキを突き、生沢がトップを奪い取ったのだった。ただ、すぐに抜き返せるのにホームストレートを過ぎるまで待ったという側面はあったらしい。
翌日の新聞には「泣くなスカイライン、鈴鹿の華」と見出しがおどった。世界に伍(ご)して戦えるクルマが現れたことに、日本人はプライドを刺激された。ホモロゲーション用に作られたスカイラインGTはすぐに売り切れ、翌年には新たにスカイライン2000GTが市販されて大人気となった。それでもプリンスは敗北を正面から受け止め、打倒ポルシェを目指してプロトタイプレーシングカーのR380 を開発する。1966年の第3回日本グランプリでは優勝を飾り、見事に雪辱を果たした。
その直後の8月、プリンス自動車は日産自動車に吸収される形で合併した。R380でのレース活動はそのまま引き継がれ、R381、R382へと発展していく。そして1969年、日産スカイラインのラインナップに6気筒エンジンを搭載したGT-Rが加わった。開発を行ったのは桜井眞一郎で、載せられたエンジンS20型はR380用に作られたものをベースとしていた。
スカイラインGT-Rはその後も代を重ね、2007年には日産GT-Rとして新たな一歩を踏み出した。ポルシェ911に拮抗(きっこう)する高性能車として、世界が注目するモデルである。栄光への軌跡をたどると、すべての始まりは1964年の日本グランプリにあった。生沢と式場が繰り広げた伝説のレースが、エンジニアたちの闘争心をかきたてたのだ。
1964年の出来事
topics 1
ホンダがF1初参戦
1961年、ホンダは125cc、250ccの両クラスで二輪世界GPのタイトルを獲得する。マン島TTレースに初参戦してから3年目の快挙だった。市販車では今に至るまでベストセラーとなっているスーパーカブを1958年に発売し、二輪メーカーとしては世界的な大メーカーに成長していた。
1963年、ついにホンダは四輪車への進出を果たした。トラックのT360とオープンスポーツのS500を発売したのだ。当時としては珍しいDOHCエンジンを搭載したことが驚きをもって迎えられたが、水面下ではさらに衝撃的なプロジェクトが進行していた。F1への挑戦である。
1962年、ホンダは鈴鹿サーキットを完成させている。本格的なモータースポーツ時代の到来に向けて、準備を整えていた。ロータスにエンジンを供給して1964年5月のモナコGPから出場する予定だったが、1月になって突然キャンセルを告げられる。ホンダは諦めずに自らシャシーを用意することを決め、8月のドイツGPでデビューを果たした。
RA271は12気筒エンジンを横置きに搭載するという珍しいレイアウトで、1気筒あたり125ccというのは二輪で慣れ親しんでいた数値だった。12000回転でハイパワーを発揮したものの、ボディーが他のコンストラクターに比べて重く、なかなか結果を得られなかった。
それでも翌年のメキシコGPで初勝利を挙げ、1968年まで参戦を続けた。1983年に復帰してからの第2期はエンジン供給のみで、ターボ時代のF1で圧倒的な強さを見せつけることになる。
topics 2
トヨペット・コロナが3代目に
1955年、初の純国産乗用車といえるクラウンが登場し、高評価を得た。中型タクシー市場での需要は多く、好調な売り上げを記録していた。しかし、小型タクシー市場では、ダットサン110が大きなシェアを得ていた。1957年、同じクラスにトヨタが投入したのがトヨペット・コロナである。
クラウンより小さなサイズで、1000ccエンジンを搭載する。丸みを帯びた形から“ダルマコロナ”の愛称で親しまれたが、販売面ではあまり好成績を挙げられなかった。
1960年にフルモデルチェンジされた2代目は、フロントにトーションバー、リアにカンチレバー式のサスペンションを採用した意欲的なモデルだった。デザインもすべてのピラーが前傾するという斬新なもので、女性から評価が高かった。それでも前年に発売されていたブルーバード310の人気に対抗するのは困難で、販売面では2位に甘んじていた。
1964年に発売された3代目のコロナは、“アローライン”と呼ばれたシャープなフロントノーズが特徴的だった。先代モデルは第2回日本グランプリでスカイラインに敗れたが、モデルチェンジ後に行った10万キロ連続高速走行公開テストが功を奏し、評判を高める。登場から5カ月でブルーバード410の販売実績を上回り、国内販売1位の座を勝ち取った。この激しい販売競争は、“BC戦争”と名付けられた。
国内での販売のみならず、海外でも高い評価で迎えられた。ブルーバードとともに輸出実績を積み、日本車の国外進出の礎となった。
topics 3
東京オリンピック開催
1964年に開催された東京オリンピックは、アジアで行われた初めての大会である。当初1940年に開催されることが予定されていたが、日中戦争の影響を考えて返上していた。戦災からの復興の途上にあった日本にとって、オリンピックは国際社会へ復帰するための悲願でもあった。この年の4月、日本はOECDに正式加盟し、経済的には先進国への仲間入りを果たしている。
1959年の開催決定から、国家プロジェクトとして大規模な都市開発が進められた。国立競技場の建設には巨額な国家予算が投入され、道路や鉄道の整備も進んだ。首都高速道路公団が設立され、1964年に浜崎橋ジャンクションと三宅坂ジャンクションが完成した。
鉄道では東京モノレールが開業し、羽田空港から都心へ向かうアクセスの利便性を高めた。東海道新幹線が開業したのは、開会式直前の10月1日である。東京―新大阪間を4時間で結び、“夢の超特急”と呼ばれた。
日本は柔道、レスリング、体操などで活躍し、“東洋の魔女”と呼ばれた女子バレーボールチームが圧倒的な力を見せた。獲得した金メダルは16個で、アメリカとソ連に続く第3位という好成績だった。
外国選手では、マラソンのアベベ・ビキラ、女子体操のベラ・チャスラフスカ、柔道のアントン・ヘーシンクなどの活躍が人々に感銘を与えた。
【編集協力・素材提供】
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[ガズー編集部]
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