<自動車人物伝>コーリン・チャップマン(1948年)

よくわかる 自動車歴史館 第39話

売れ残ったクルマを改造してレースに

ロータス・セブン
若かりし頃のコーリン・チャップマン
ロータス・マーク1

2014年3月、ケータハムカーズ ジャパンはセブン160を発表した。スズキの軽自動車用ターボエンジンを搭載した、セブンシリーズのエントリーモデルである。エンジンは64psから80psにパワーアップされており、車重はわずか490kg。0-100km/h加速は6.9秒を実現している。このモデルの原型は、1957年にロンドンモーターショーで発表されたロータス・セブンだ。実に50年以上にわたって製造されていることになる。

ロータスは、天才エンジニアのコーリン・チャップマンが創業したスポーツカーメーカーである。彼は大学在学中にモータースポーツに目覚め、クルマにかかる費用を稼ぐために中古車販売を始めた。戦後すぐの混乱期で、ガソリン配給権の得られる中古車は大人気だったのだ。

しかし、1947年になるとガソリン統制は廃止され、中古車業は立ち行かなくなる。急いで在庫を整理したが、最後に1台が売れ残ってしまった。20年ほど前のオースチン・セブンが、あまりに旧式なので買い手がつかなかったのだ。チャップマンは、この古いクルマを改造してレーシング仕様に仕立て直すことを思いつく。ガールフレンドのヘイゼル(後のチャップマン夫人)の家の裏庭に車を持ち込み、改造を始めた。

シャシーを強化して剛性を高め、エンジンの圧縮比アップやキャブレターの交換などで出力も向上させた。1948年になるとローカルなレースに出場するようになり、好成績を残す。チャップマンはこのマシンをロータスと名づけた。植物の蓮(ハス)を意味する言葉である。この記念すべき第1号車は、ロータス・マーク1と呼ばれることになった。チャップマンが第2号車であるロータス・マーク2の設計にとりかかったからである。

バックヤードビルダーからスポーツカーメーカーへ

ロータス・マーク6
ロータス・エリート
ロータス・エラン

マーク2は1950年に行われたレースイベントで、ブガッティ・タイプ37に勝利してしまう。旧型とはいえグランプリマシンを打ち負かしたということで、ロータスの声望は高まった。続いて作られたマーク3は、フォーミュラ750で圧倒的な速さを見せつける。本格的にスポーツカーの製造を行うため、チャップマンは1952年の1月1日、ロンドンにロータス・エンジニアリング社を設立した。

転機となったのは、マーク6である。このモデルは、設計の段階から量産化が考慮されていた。それまではオースチン・セブンのラダーフレームを利用してレーシングカーを仕立てていたが、マーク6では独自のスペースフレームを採用している。わずか25kgという非常に軽量なもので、アルミ製のボディーパネルを取り付けても40kgだった。

マーク6はキットフォームの形で販売されていた。シャシーやボディー、サスペンションなどのパーツの形で提供され、購入した客は自らの手で組み立てることになる。完成車として販売すると高率の税金がかけられるが、パーツならば免除されるからである。また、レーシングカーを購入する人々にとっては、自分で最後の仕上げを行うことは楽しみでもあった。エンジンはフォードの1.2リッター直列4気筒をはじめとするいくつかの選択肢があり、自分で用意することも可能だった。

マーク6は大人気となり、1955年までに100台以上が販売された。ロータス・エンジニアリング社の工場は古い馬小屋を借用して作られたもので、フル稼働してもこれが精いっぱいだった。チャップマンは次なるプロダクションモデルの製造のために会社を改組し、新たな工場を建設した。1957年、2台のニューモデルがデビューする。1台は前述のセブンで、同時に発表されたのがエリートである。

エリートはロータスとしては初のクローズドボディーを備えた、GTスポーツという性格を持ったモデルだった。車体構造はFRPモノコックボディーという革新的なもので、軽量であるとともにCd値0.29と空力に優れた形状を採用していた。高出力のコベントリー・クライマックスエンジンを搭載し、四輪独立のサスペンションを備えたエリートは、レースでも高い戦闘力を誇り、ルマン24時間レースでは6回のクラス優勝を飾っている。

エリートは1963年までに約1000台が製造された。スポーツカーメーカーとしての足場を固めたロータスは、北米マーケットに進出を果たす。その戦略の中心を担ったのが、1962年のロンドンモーターショーで発表されたエランである。車体はバックボーンフレームにFRPのボディーを組み合わせたもので、この構造は後々のモデルにも受け継がれることとなる。もくろみどおり北米で大成功を収めたエランは、合計で1万8000台が製造された。

F1マシンにあまたの革命をもたらす

1965年のインディ500において、エースドライバーのジム・ク
ラーク(中央)に声をかけるコーリン・チャップマン(左)。
ヒストリックカーのイベントで走る姿を披露するロータス72。
ロータス79と、コーリン・チャップマン。
ロータス99T

チャップマンはロードカーの製造のみを行ったのではなく、モータースポーツにも大きな足跡を残している。そもそもマーク1は自分がレースをするために作ったものだったのであり、初期のロータスでは彼自身がドライブしてルマンなどの大舞台に出場している。

ロータスが初めてF1に参戦したのは、1958年である。当初はさしたる成績をあげられなかったが、1960年にミドシップレイアウトの18を投入すると状況が好転する。モナコGPではこのマシンを購入したロブ・ウォーカー・レーシングチームのスターリング・モスが優勝し、ロータスマシン初のGP勝利となった。チーム・ロータスとしては、翌1961年にアメリカGPで初優勝を果たしている。

1962年に登場した25は、レーシングカーデザインに革命を起こした。従来のスペースフレームに代わり、モノコック構造を採用したのである。D字型断面を持つメンバーを左右に持ち、前後のバルクヘッドと組み合わせてバスタブ型のモノコックを形成する。軽量でねじり剛性に優れた構造で、高いロードホールディング性能により圧倒的な戦闘力を誇った。熟成が進んだ翌1963年シーズンは、ジム・クラークのドライブで10戦中7勝を挙げ、ドライバーとコンストラクターズのダブルタイトルを手にした。

このほかにも、ロータスが導入した革新的技術は多い。72では、ラジエーターをフロントからサイドに移し、ボディー全体をウエッジシェイプにするデザインを採用した。サイドラジエーターは現在のF1では常識だが、これもチャップマンのアイデアなのである。78ではさらに空力の考え方を前に進め、グラウンドエフェクト理論を取り入れた。サイドポンツーンをウイング形状にし、強大なダウンフォースを生み出したのだ。78と改良型の79で、ロータスは1978年のコンストラクターズタイトルを獲得した。

チャップマンは、1982年に心臓発作でこの世を去った。死の直前、彼はチームにアクティブサスペンションの開発を指示している。翌年のF1に投入したアクティブサス仕様の92は成功しなかったものの、87年の99Tはアイルトン・セナと中嶋 悟のドライブで好成績を残し、その後のF1に大きな影響を与えた。チャップマンは、生涯を通じて常に新しい技術にチャレンジしてきたのだ。

ただ、現在もスポーツカーマニアに愛されているセブンは、決して目新しいテクノロジーが盛り込まれているわけではない。50年以上前に原型が作られたのだから当然だが、当時も同時に発売されたエリートに比べればはるかに保守的な構造だった。しかし、それはチャップマンが初めて作ったマーク1の志を継ぐ誰もが楽しめるクルマであり、モータースポーツを愛する人々の心をとらえたのだ。チャップマンの魂は、今もセブンの中に宿っている。

1948年の出来事

topics 1

“ブリキの缶詰”シトロエン2CV発表

1948年のパリサロンにシトロエン2CVが現れた時、評判は散々だった。あまりにも簡素で自動車らしくない姿を見て、ジャーナリストたちは「ブリキの缶詰」「みにくいアヒルの子」「乳母車」などと表現した。このクルマに込められた高い理想を理解できるものは少なかった。

1930年代なかば、シトロエンの副社長だったピエール・ブーランジェが南フランスの田舎に赴くと、牛馬が輸送の中心になっていることに驚いた。都市では自動車が当たり前になっていたが、農村は19世紀と変わらない生活様式だったのである。彼は農民向けの小型自動車を作る必要を感じた。開発を任されたのは、トラクシオン・アヴァンを設計したアンドレ・ルフェーブルである。

ブーランジェは「こうもり傘に4つの車輪をつける」というテーマを示し、さらにいくつかの条件を示している。「50kgのジャガイモを載せて60km/hで走れる」「ガソリン3リッターで100km以上走れる」「トラクシオン・アヴァンの3分の1以下の価格」などである。ほとんど不可能とも思われる難題だったが、第2次世界大戦による中断の後も開発が続けられ、合理性のかたまりのようなクルマが完成した。

冷笑とは裏腹に2CVは人々から支持を集め、フランスのどこでも見かけられるヒット作となる。海外への輸出も始まり、イギリスやポルトガルなどで現地生産も行われた。多くの派生モデルを生み出しながら1990年まで生産が続けられるロングセラーとなった。

なお、車名の2CVとは2馬力の意味で、フランスにおける税制上の分類を示したものだ。アニメーション映画監督である宮崎 駿の個人事務所が二馬力という名前なのは、彼が長い間2CVを愛車としていたことにちなんでいる。

topics 2

“理想のクルマ”タッカー48が登場

第2次大戦後、アメリカ国民は新しい乗用車を欲していたが、ビッグスリーは1941年以来ニューモデルを発表していなかった。軍需に対応するため、民生の製品は後回しにされていたのである。この状況は、アメリカの自動車市場に新たなメーカーが参入する好機ととらえられた。

政府は不必要になった軍需工場を民間に提供する方針を打ち出し、多くの起業家がチャンス到来を信じた。「理想のクルマを人々に提供する」という夢を抱いていたプレストン・タッカーもその一人である。彼はシカゴの広大な工場を借り受け、自動車製造に乗り出す。

彼が開発したタッカー48は、極めて先進的な設計思想を持っていた。水平対向5.5リッター6気筒エンジンをリアに搭載する後輪駆動方式をとり、四輪独立懸架を採用していた。モダンな流線型のボディーをまとっていて、魚雷を意味する「トーピード」の名で呼ばれた。

フロントマスク中央にステアリングの舵角(だかく)に応じて動く第3のヘッドランプを装着したのも大きな特徴である。また、ルーフに統合された外周フレームで乗員を保護するなど、安全性についても配慮がなされていた。当時の水準をはるかに超えるモデルの登場は、ビッグスリーを恐れさせるに十分だった。

トーピードは大きな反響を呼んだが、製造されたのはわずか51台だった。不具合が生じたのも理由のひとつだが、公正取引委員会からローンが却下され、さらにタッカー自身が詐欺罪で訴えられるなどの不可解な出来事が重なった。会社は倒産し、“理想のクルマ”は闇の中に消えていった。タッカーファンでもある映画監督のフランシス・コッポラは、一連の事情をテーマにした映画『タッカー』を制作して1988年に公開した。

topics 3

イスラエル独立宣言で第1次中東戦争ぼっ発

1948年5月14日、ユダヤ国民評議会がイスラエル建国宣言を発表した。パレスチナはもともとイギリスの委任統治領だったが、ユダヤ人とアラブ人の抗争が激化し、内戦状態に陥っていた。国際連合は1947年にパレスチナ分割決議を行い、ユダヤ人地域、アラブ人地域、国連統治地域に3分割する案を採択するが、これが争いに火を注いだ。

双方に義勇兵が集まり、武器を調達して本格的な戦争に備えた。各地で散発的な戦闘が発生し、イギリス軍は事態を収拾する能力を失っていた。彼らはパレスチナから撤退し、イスラエルはテルアビブで独立を宣言する。

反発したアラブ5カ国は宣戦布告し、15万の兵力で侵攻した。イスラエル側は民兵3万人で対抗するしかなかった。6月に入ると国連の仲介で停戦が成立する。時間を得たイスラエルは国防軍を編成し、戦闘機や戦車を調達して準備を整えた。7月に戦闘が再開されると、制空権を得たイスラエル軍が次第に有利となる。翌年停戦が成立すると、パレスチナ地域の大部分はイスラエル領となった。

ユダヤ人とアラブ人の双方にとってパレスチナは父祖の地であり、どちらにも不満が残った。戦争は終結したわけではなく、1956年に第2次、1967年に第3次、1973年に第4次中東戦争が起きた。この地域は原油の生産地でもあり、紛争が発生するたびに世界経済に影響を与え、自動車産業の動向も左右することになる。

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[ガズー編集部]